サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 21

「色々と面倒な繰り言が俺のデスクに押し寄せて来るんだよ」
 各種の打ち合わせに用いられる殺風景な部屋の奥まった場所に置かれたソファで、荒城は乱暴に膝を組んで、左右に分かれて座った二人の顔を順繰りに眺めた。二人とも沈黙で自分の身を護る以外の途を、当座は何も思い浮かべられなかった。呼び出しの背景は、誰の眼にも明瞭だった。活発な新参者の野兎を、老獪で大人しい先輩たちが不快に思い、業務に支障を来すようでは困ると、尤もらしい正論をコレクションして、農場のボスに提出したという訳だ。理由や経緯は兎も角、部長の手を煩わせたという動かし難い事実が既に、野兎の保護者である辰彦にとっては手痛い失錯に他ならなかった。こんな狂暴な兎だとは思わなかったと被害者の面構えで訴えることも不可能ではないが、それは良心が咎めた。狂暴であることは、喫茶店での面談だけでも、充分に窺い知ることの出来た彼女の個性であったからだ。今更白を切っても、余計に野兎の憤怒を煽動し、荒城との面談の首尾を悪化させる結果に繋がるだけだろう。
「川崎。お前がきちんと面倒を見ないから、こういう事態に陥ったのか」
 椿への仄かな気遣いだろうか、荒城の口調は抑制されて、日頃の剣呑な粗暴さを辛うじて隠していた。けれども、言葉の張り詰めた硬さが、彼の秘められた感情を明らかに示唆していた。彼は余計なトラブルを持ち込んだ二人に対して、一般的な憤激を感じているのだ。余計な仕事を殖やされる、しかもそれが下らない感情的な諍いの多様な変奏であるというのは、荒城という人物にとっては「愚の骨頂」以外の何物でもない。感情に囚われて脇見をする奴はさっさと車に撥ねられちまえ、という苛烈な叱声を、辰彦は以前に自分の鼓膜で受け止めた覚えがあった。
「申し訳ありません」
 謝る以外に術はないと思い切って頭を下げた辰彦の傍らを、椿の如何にも不機嫌そうな声音が矢のように駆け抜けた。
「川崎さんは何の関係もありません。叱られるのなら、私です」
 辰彦が顔を上げて掣肘を試みる前に、渋面の荒城が凍えるような声で報いた。
「安心しろ。順番に怒鳴りつけてやる積りだ」
「順番じゃなくて、私だけで結構です」
「何でそんなことを、あんたに指図されなきゃならない?」
 恐らくは「お前」と無骨に言い掛けたのを寸前で堪えて「あんた」に掏り替えたのだろう、聊か歯切れの悪い口調で、荒城は椿の双眸を射貫くように見据えた。
「あんたは新人だな? うちの仕事は何一つ知らない。本の一冊、いや一頁すら、仕上げたことのない素人だ。それがあんたの身分だ。間違いないな?」
「はい、間違いありません」
「あんたは芸能人が一日駅長やら一日警察署長やら観光大使やらを任されるような積りで、このオフィスをうろついている訳でもねえ。そうだな?」
「はい。そんな厚遇を受けた覚えはありません」
 皮肉な返答に、辰彦は心臓を締め上げられるような息苦しさを感じた。
「だったら、あんまり調子に乗って他人の仕事に嘴を挿むのは止せ」
「教えを乞うことがいけないんですか」
「教えてやりたいと思わせられない人間に、教えを乞う資格があると思うか」
 荒城の痛烈な反撃は、椿の反骨精神に満ちた饒舌を怯ませた。椿の眼は見開かれて、その視線は劇しい風圧に抗うように荒城の唇を捉えていた。その横顔は砂嵐に削られた古びた石像のように見えた。
「男だ女だ、そんなことは関係ねえが、つまり明るく媚びるのが女の役目だなんて古臭い常識には縛られてねえ積りで言っとくが、教師をその気にさせられねえなら、せめて他人の仕事の邪魔をするな。大体、あんたの世話は川崎に任してある筈だ。あんたが川崎を頼らねえで直に他の人間の机を窃み見るから、誰もが辟易するんだ。根本的に言って、お前は恩人である筈の川崎のことすら蔑ろにしてるんだぜ」
 遂に自制の緩んだ「お前」という呼び掛けが旋風のように過ぎ去った後で、椿はもう如何なる反論も試みずに口を噤んでしまった。凍り付いた横顔の輪郭を辿るように、無音の涙が、嗚咽を欠いた涙が流れて瀝り落ちた。堪えているのだろうか、と辰彦は思った。荒城は忌々しそうに顔を背け、片手で虚空を払った。
「もういい。川崎、連れて行け」
 辰彦は立ち上がり、椿を促した。彼女は何も答えず、身動きもしなかった。時間が停止したように、椿は無言で涙を流していた。悔しいのだろうか。だが、奇妙な眺めだった。抑圧された嗚咽の遣り場が気懸りだった。内臓に負担が掛かりそうな泣き方だ。
「長居は無用だ。じゃあな」
 女の涙を何よりも忌み嫌う荒城が足早に去った後の部屋には、緊迫した沈黙と、後味の悪い叱責の余韻だけが遺された。止むを得ず、辰彦は手巾を差し出した。椿は黙ってそれを受け取り、広げて顔に押し当てた。初めてか細い嗚咽が漏れた。ダムの放水が始まったらしい。辰彦は静かに項垂れて、自分の損な役回りを再び呪った。