「Hopeless Case」 19
椿の生活は充実していた。傍目には、それを充実と呼んでいいのかどうか、判然としなかったに違いないが、少なくとも彼女は活々と動き続けていた。就活の終わった同世代は、人生最後の夏休みと思い定めて
漸く発見したという想いが、決して手放したくないという執着に転じることは少しも珍しい話ではない。それを失ってしまえば再び冷たい荒廃の世界へ舞い戻ってしまう、墜落してしまうという感情は、通俗的な恋に似ていた。二度とあの場所へ戻りたくないと思い詰めるほど、切迫した苦しさではなかったと感じるのに、いざ温度が変わり、景色が変わってしまえば、人間は贅沢で強欲になるのだった。潜り込んだ職場で、自分が必ずしも歓迎されていないことは椿自身、理解していた。けれど、それは今更撤退の理由にはならない。引き返して、何処へ戻ろうと言うのか? 亘祐と別れて自分では思いも寄らぬ空白に、色々な本で見掛けた覚えのある「虚無」という奴に、身も心も蝕まれた頃の記憶は既に遠かった。ただ、遠いからと言って、その痺れるような後味まで綺麗に拭われた訳ではなかった。帳消しということは有り得ない。忘れた事件が、どんな後遺症も授けないとは限らない。
いざ踏み込んでしまえば、辰彦が入念に語ったように、衰燈舎の日々の業務は極めて地味であった。一流の盛名に彩られた作家と原稿の遣り取りをする訳ではない。大学教授が応接室に招かれることはあっても、見た目には普通の人々で、専門書に縁遠く学者の卵でもない椿の感情を高ぶらせることはなかった。海外のマイナーな作家たちにしても、翻訳係に所属する語学の堪能な数名のスタッフがメールやスカイプで商談を進めるだけで、その存在は蜃気楼のように生身の手応えを欠いていた。視野に映るのは、只管に地味な作業の連続で、固より文学という世界、書籍という世界がそんなに華々しく耀かしい筈もない。虚構の楽屋は酷く散文的で索漠としていた。それゆえに椿の意欲や情熱が色褪せるということはなかった。白紙に綴られた活字の羅列自体が華やかである理由もない。その活字の彼方まで翔ばなければ、どんな鮮烈な風景も捉えることは出来ないのだ。踏切板が耀く必要はない。飛び込む空が青ければいいのだ。
校正係の定岡は、神経質な風貌の男で、三十歳を僅かに過ぎたばかり、概ね辰彦と同年輩だった。華奢で繊細な顎の輪郭、髭が伸びているところを見たことがない。彼は明らかに椿という闖入者を嫌っていて、彼女に話し掛けられたり仕事を観察されたりすることを極度に嫌がった。スマホで定点から動画を撮影させてくれと頼み込んだときも、直ぐには首を縦に振らなかった。辰彦が間に立って熱心に口説いてくれなかったら、きっと椿の願いは叶えられなかっただろう。
「何でそんなに嫌がるんですか。あたしのことが気に入らないんですか」
定刻の十八時を回り、仕事の後片付けに着手した定岡の背中に向かって、椿は不敵な問いを投げ掛けたことがあった。流石に余りに直截な尋ね方だったので、別に筋金入りの悪人でもなく、寧ろ不器用で寡黙な
「僕は君みたいな女の子が苦手だ。無躾だし、距離感がおかしい」
「距離感がおかしいって、どういうことです。別にくっついたり手を握ったりした訳じゃないし」
「当たり前だろう、そんなこと」
椿の投げ遣りな口調に苛立って、定岡は思わず気色ばんだ。立ち上がった背中、それを包むダークスーツの鈍い光沢や鋭い輪郭さえも怒りに慄えているように見えた。
「君は仕事の邪魔をしている。僕たちは、君の存在を負担に思っている」
「何故?」
「何故って、彼是質問攻めにしたり、集中を擾したりするじゃないか。僕たち編輯部の人間は、横槍を何よりも嫌っているんだ」
「皆で集まって働いてるんだから、少しぐらいの横槍は我慢して下さい」
「君は僕のことを馬鹿にしているのか」
堪りかねて珍しく真っ直ぐに椿の顔を睨み据えた定岡の唇は蒼褪めていた。リムレスの眼鏡、その淡い金色のテンプルが余計に彼を神経質な男に見せていると、彼女は思った。背後から辰彦の声が聞こえた。不毛な諍いの勃発を目敏く発見したのだろう。保護者に護られている限り、子供扱い、余所者扱いは終わらないんじゃないかと感じた椿は、振り向いて掌を突き出し、辰彦の疲れ果てた眼差しを見凝め返して、それ以上近付かないでと無言の表現で厳しく訴えた。