サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 23

「遅かったね。疲れてるの?」
 字面だけを受け止めれば優しい労わりの言葉以外には聞こえようもないが、人間の発する言葉は必ず生身の肉声を伴っていて、その生理的な音楽が吐かれた科白の文脈を規定する。その観点から耳を澄ます限り、彼女は何かしら疲労を抱えていて、しかもその疲労はネガティブな感情を胎児のように宿していると感じられた。その端的な事実が、一日の労働の末に蓄積した辰彦の疲労の相対的な重量を嵩上げした。彼女は明るく満ち足りた専業主婦でも、赤児への夥しい愛情に魂を灼かれて天使のように崇高な心境へ達した理想的な母親でもなかった。つまり、危険な状態だった。感情が氾濫する手前の、危険な増水の徴候が耳慣れた声の響きの中に混じっていた。巧妙な隠蔽、或いは懸命に抑制された演技。辰彦は食卓の椅子に腰掛けて、雨曝しの自転車のように見捨てられた今日の夕刊を捲った。妻の梨帆は新聞代の支出に懐疑的だった。スマホの普及した御時世に、わざわざ嵩張る紙の新聞を契約して月々決まった金を払うのは愚かしいのではないか、というのが彼女の見解だった。どうせ直ぐに捨て去るものならば、森林資源を損なうよりも、電気を損なった方が後腐れがなくて好い。
「色々面倒に巻き込まれてね」
 辰彦は慎重に言葉を選んだ。尋ねられたからと言って、疲れている人間に向かって自分の疲労を綿々と説明するのは紛れもない愚挙である。それに梨帆は、辰彦の仕事の具体的な内容に就いて積極的な関心を持っている訳ではなかった。世間並みの平凡な相槌が得られるならば、それで満足すべきだった。寧ろ、それは呼び水なのだ。自分の抱えている陰湿な不満を相手に呑み込ませる為の、事前の形式的な儀礼なのだ。辰彦が多くの愚痴を並べれば並べただけ、利子を背負って膨れ上がった元本の心理的返済が求められることになる。それは確かに公平な遊戯ではない。梨帆は夕飯の仕度を始めた。叩き起こされたマイクロウェーブが低い唸り声を不平そうに掻き立てて、辰彦の食事を次々に発熱させる。その電磁的な騒音が、乏しい言葉の往来を妨げた。工事中の道路のように、彼らの会話は通い難かった。
 食卓の上に差し出された手料理を、辰彦は黙々と食べた。深いところまで穿たれた深刻な疲弊が彼の口数を奪っていることは事実だった。梨帆の料理は常に美味しかった。不満を覚える余地などない。だからこそ、却って重荷に感じられる場合がある。相手の完璧な働きが、負債のように被さる瞬間の息苦しい閉塞感を、世間の旦那たちは一様に味わった覚えがあるに違いないと辰彦は考えた。落ち度の少なさを競い合う酷薄な将棋のような生活の断面を、誰もが生々しく目撃してきたに違いない。何故、素直に振舞えないのかと第三者は訝かるかも知れないが、距離の近さが却ってそれぞれに鎧を着せるというのは有り得ることだ。近過ぎて素直になれないという逆説は少しも稀な事例ではない。
「私もう寝るから、食器洗っておいてくれる?」
 辰彦が食べ終わるのを待たずに、梨帆は重たい瞼を辛うじて持ち上げる煩瑣な努力を保ったまま、乾いた声で言った。辰彦は鶏肉に振られた黒胡椒の粒を咬んで、その刺すような辛さに顔を顰めている最中だった。黙って頷き、寝間へ消えていく妻の背中を彼は見送った。居間と襖一枚で隔てられた畳敷きの寝間へ、夜の沈黙が広がった。皿の脂をキッチンペーパーで念入りに拭き取ってから、彼は湯を流した。浮いた脂の膜が、流れる湯に押し流されてシンクの底へ零れ落ちた。蟀谷の辺りに鈍い痛みが凝っていた。椿の泣き顔が浮かび、荒城の強面が眼裏を飛び交った。益々疲弊が募るばかりだ。辰彦は洗い物を放置して、先にシャワーを浴びようと考えた。
 熱い湯の流れを汚れた皿のように浴びながら、辰彦は明日の出勤を厭わしく思った。明日も椿と顔を合わせるのは気鬱だった。憔悴していれば、それだけで世話が焼けるし、元気を取り戻していたとしても、その所為で殊勝な反省が揮発してしまっていたら意味がない。荒城の説教で蹴飛ばされた野良猫のように傷つき苛立っている椿を庇いながら、通常の業務まで熟すのは至難の業だ。何で自分ばかりがこんな苦労を背負い込まねばならないのか、釈然としない。その分の疲労が溜って、家庭生活にも不本意な陰翳を投じているような気がして、彼の懊悩は猶更強まった。襖の向こうに消えた梨帆の草臥れた横顔が何度もチラついた。やってられねえ。そうやって叫び出したくなるくらい、彼の内臓にまで染み込んだ疲弊は、マイナスのエネルギーを膨張させていた。
 頭髪の水気をタオルで乱暴に、力任せに拭い去りながら、彼は娘のことを考えた。襖の向こうで、母親の傍らで眠りの底に沈んでいる三歳の無力な悪魔。両親の精神を貪って大きくなる純潔な悪魔。その寝顔は何時でも天使の彫刻のように完璧な愛らしさを纏っていた。そういう数多の矛盾に取り囲まれながら、辰彦はどうやって生きれば、人生というものは楽になるのか、皆目見当もつかないことに絶望的な不安を覚えた。