サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 29

 一年間の仕事を卒えた歓びと解放感が、人々の心を透明に変えていた。誰もが普段より浮かれ過ぎていて、躁ぎ過ぎていて、消費されるアルコールの総量は止め処なく膨れ上がった。テーブルの上には大小様々の皿や器が濫れ返り、盃が林立し、雑炊を煮立てる土鍋が濛々たる湯気を活発な噴火口のように舞い上げていた。
 酔いが深まるに連れて席替えが頻繁に行われ、誰かがトイレへ立つ度に、その一帯の顔触れが奇術のように入れ替わった。社長の森実が早めに切り上げて帰るとき、一同は盃の把手を握り締めた指を慌てて引き剝がし、主だった幹部社員が沓脱まで見送りに行った。その一瞬の空白を衝いて、辰彦が椿の隣に逃げ帰ってきた。香夏子は役職の上では別に会社の幹部ではなかったが、心理的には自分自身のことを重鎮だと解釈していて、社長の見送りに参加する為に嬉々として立ち去って行ったのである。
「酔っ払いの話に相槌を打ち続けるのは重労働だな」
 椿の顔を見て、仄かな苦笑を滲ませた辰彦の眦にも、明確な酔漢の象徴が泛んでいた。潤んだ瞳も紅潮した顔も、普段の辰彦の印象から遠く隔たっている。捲られたトランプのように、或いは忍者屋敷の廻転扉のように、見慣れない光景が俄かに鼻先へ突きつけられた気がする。辰彦の深酒した姿を目の当たりにするのは、椿にはこれが初めてだった。毎週金曜日の反省会では、多少のアルコールを口にすることはあっても、グラス二杯程度が暗黙の上限に定められていて、辰彦がその規矩に違反したことは一度もなかった。明日から正月休みという開放的な身分と気分が、彼の沈着な理性に猿轡を咬ませてしまったのかも知れない。聊か乱暴に落ち着けた尻の位置も、適切な距離感を僅かに欠いているように思われたが、椿は特に拒絶の含意は示さなかった。彼女自身、女同士の下世話な会話の息継ぎの度に唇へ運んだグラスの回数が、正常な頻度を超えていた為に、酔いの齎した気怠い自堕落さの底に居着いていた。だから、侵犯された正常な距離の強いる生理的な威圧のようなものが、きちんと肌に届かなかったのだろう。
「そろそろ帰らなくて良いんですか。もう結構な時間ですよ」
 大部屋の鴨居の上に飾られた木彫の時計は、午後十一時を指していた。社長を見送った流れに乗って、遠方から通っている数名の社員が年の瀬の挨拶を滑稽な物腰で交わしながら引き揚げて行った。終幕に固有の奇態な侘しさが、例えば夏目漱石の「吾輩は猫である」の終章に滲んでいるような寂寞の香りが、熾火のような雑談の合間を縫って漂い始めた。辰彦は乱れた前髪を払って時計の文字盤を睨んだ。床に突いた腕の表面に、逞しい静脈が浮いて見えた。
「今日は遅くなると言ってあるんだ。だって、一年の締め括りだからね」
 日頃の辰彦とは裏腹の、弛緩した微笑が油滴のように瀝った。重たげに腕を伸ばし、グラスを引き寄せて温くなったエールのグラスを傾ける。薄い黄金色の液体は、気泡が止んで腑抜けのような外見を呈していた。辰彦は眉根を寄せて、苦痛に堪えるような表情で生温いエールを乾した。力加減が狂っているのか、卓子の端に置かれたグラスは硬質な騒音を立てた。
「君こそ、親御さんがそろそろ心配するんじゃないか」
「どうでしょう。もうあんまり子供扱いはされなくなってますけど」
「口に出さないだけじゃないのかい」
「そういうもんですかね」
「きっとそうだよ。言葉を選ばざるを得ない年頃じゃないか」
 一端の父親のような口を利く、と椿は密かに心の表面で苦笑した。確か辰彦の娘は未だ三歳の筈だ。良くも悪くも無邪気で明け透けな年頃ではないだろうか。小さな子供の生態には疎い私だけれど、と思いつつ、眼の前の色素の薄い肌の男性が所謂「保護者」という生き物の一員であるという素朴な事実に改めて思い当たり、椿の心は忽然と突き出した棘に指で触れたような気分になった。船橋市で小さな法律事務所を営んでいる謹厳な父親は、寛容の精神を旨としていて、娘の夜遊びに口出しするようなことは滅多になかった。多趣味な母親は、自分の用事に何時も忙殺されていて、成人した娘を猶も偏執的に監視し続けるような悪趣味に対しては関心を節約していた。もう子供じゃないんだから、という科白は、彼女の両親の信奉する呪符のようなものだった。それは言い換えれば、自分たちはもう親の責務を卒業したのだという晴れやかな宣言の陰画なのかも知れなかった。確かに、そういう気分に陥ることは有り得るだろうと、既に子供ではなくなった娘は考えた。二十歳を過ぎても猶、手綱を握り締めておかなければならない娘というのは、余りに厄介な荷物であり過ぎる。
「親の意向がどうであれ、私はもう子供じゃないんです。何時に帰るのかは、私の匙加減一つです」
「後は鉄道会社の匙加減かな」
「終電って意味ですか?」
「そういうこと。終電を決められるというのは、とても強力な社会的権限だと思わないか」
 そう言って朗らかに笑い出した辰彦の眼を見るのが気恥ずかしくて、椿は慌てていることを悟られない速度で、氷の溶けたファジーネーブルのグラスを掴んで俯いた。