サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ヘルパンギーナ」 5

「聞こえてんのか、ジジイ」
 戦慄くような母の声には、裏切られた患者の途方もない怨嗟が言霊のように鬩ぎ合いながら充ちていた。私は様子を窺いながら、茫然とした。予想もつかない痛烈な科白が、普段は大人しくカルガモのようにひっそりと己の我儘な感情や欲望を扼殺して生きている筈の母親の口から紡がれたことに、どうにもならない驚愕を強いられたのだ。しかも彼女は一旦跨ぎ越した重大な境界線を慌てて引き返そうとする見苦しい醜態とは、高潔で清々しいほどに無縁であった。もう今更、犯してしまった悲劇的な過ちの撤回や訂正を天空の神々へ懇請するような惰弱な振舞いなど選びようもない、と勝手に自分自身の魂へ誓ってしまったかのように見える。それが歪んだ思い込みであったにせよ、彼女がそのように早々と独り合点してしまった以上は、第三者にその異様な情熱を押し留める権能は認められていない。乳母車に横たわって漫然と指をしゃぶるくらいが関の山の無力な嬰児には、母親の我武者羅な暴走を阻止する手段など一つも授けられていないのだから。
 硬直した婦長の蒼褪めた面相には一瞥も投じず、只管に刺々しい眼差しを擦り切れた白衣の背中へ宛がい続けていた母親の前で、軋むように蛇口が捻られ、水道が停まった。白衣の外側のポケットから頼りない腕で無造作に引き抜いたハンカチで、静かに指の股や掌の皺に溜まった水滴を拭い去る老爺の表情は、此方からは死角に入って見えない。母親の乱暴な言種にも取り立てて慌てたり青筋を浮かべたりする気配がないのは、単に聞こえていないからなのか、それとも超然たる余裕を誇っているのか、俄かには判然と定め難い。何しろ年配であり、現役の医者として看板を掲げているものの、随所に老いさらばえた男の貫禄が滲み出ている有様であるから、弱った聴覚が母親の罵言を取り逃がした虞も決して小さくないのである。
「無責任なことばっか言ってんじゃねえよ」
 すっかり堰が切れてしまった母親の激情は今更、体裁を取り繕うことにも失言を撤回することにも全く無関心なまま、放埓な暴走を貫徹しようとしていた。悠然と振り返る老爺の鋭利な眼光を目の当たりにしても、その蛮勇に衰微は見受けられず、寧ろ忌まわしい相手の双眸を視界の中心に捉えた興奮によって却って、鬱勃たる憤怒が殊更に煽動されつつあるという側面も生じていた。きりりと歯を食い縛り、口の端を苛々と捻じ曲げ、眦を決した母は、苛烈な前線に聳え立つ兵卒のような気構えを炯々たる眼光を通じて、これ見よがしに示していた。その居丈高な患者の保護者と差し向かいで対峙する老獪な男の相貌にも、断じて後れを取るまいと決意したかのような戦闘的な姿勢が消え残った硝煙の香りのように淡く棚引いて見えた。
「その物言いは何だね」
 山羊のような髭をゆっくりと指先で扱きながら、医者は鼈甲の縁を持つ老眼鏡のレンズを透かして無礼な言葉遣いを操る若い女の顔を値踏みするように凝視した。色褪せた白衣に包まれた老人の肢体が心持ち、先刻よりも真直ぐに伸びて筋が通ったように見えるのは、此方の心象の範疇に属する変貌であろうか。それまで萎れた朝顔のように屈められていた背筋さえ、今は太い針金を差し込んだように、物干の棹へ通された白いシャツのように堂々と開かれている。
「仮にも医者に向かって、無礼ではないかね」
「医者には礼儀正しくしろっつうのかよ」
 普段は落ち着いて、陰気な清楚さを胸襟へ畳み込んでいる筈の母の不自然な変貌、緋村抜刀斎を想起させる、その血腥い劇的な転身に、乳母車へ横たえられたまま、嬰児の私の小さな心臓は不穏な早鐘を打たずにいられなかった。いかん、このままでは母の楚々たるイメージは失墜し、道端の側溝へ顔面から減り込むことになってしまう。私の柔らかな五体の内側に匿われた古びた魂の問題など、この極めて重要な喫緊の課題の前では、何の意義も持たぬ些末な案件であろう。私は思わず上体を懸命に持ち上げて、乳母車の手摺に一丁前に掴まって、興奮する母親の顔を顎の下から仰ぎ見た。紅く染まった頬に、潤んだ瞳は、母の瞋恚が並大抵のものではないことを明瞭に告げていた。桐原峯子、一世一代の大立ち回りである。少なからぬ義侠心を発揮して、孤軍奮闘の窮境へ乗り出そうとする産みの母の、せめてもの支えになろうと上体を起こした私は、その敢然たる勇姿に見蕩れる余り、半ば無意識に太い涎の糸を口許から垂れ流してしまった。垂れ下がった透明な唾液の筋は、蒼然たるリノリウムの床板へ落下して直ぐに明瞭な輪郭を失った。
「落ち着いて、貴方」
 慌てふためいた婦長が漸く第三者としての冷静さを取り戻し始め、仲裁者の権威を振り翳そうと試みたものの、頭に血が上った母親にとっては、そんな科白は蠅の翅音にも値せぬほど無意味な雑音に過ぎなかった。彼女の視神経は最早、劇しい怒りの為に煮え滾って極度の狭窄に陥っており、前方に立ち開かる老い耄れた医者の憮然たる表情だけを只管に捉え続けていた。長く続いた飢餓に堪えかねて総身を痙攣させている肉食の野獣のように、彼女は水呑み場を訪れた穏やかな草食の野獣へ血走った眸子を差し向けて、抑制された荒々しい息遣いを単調な律動のようにずっと繰り返した。
「あたしの境遇なんか、何一つ知りもしないんだろう」
 肩を大きく上下させながら、母は乳母車に横たえられた幼い息子のことさえ意識の埒外へ追い遣って、蔵部先生の太々しい面相を憎々しげに見据えながら言った。
「あたしがどんな関係の中に、蟻地獄へ攫われたみたいに、どうにも釣り込まれて逃げ出せなくなっていることも、知らないくせに、勝手なことばかり」
「君は精神科へ掛かった方が良いんじゃないのか」
 意想外の罵詈雑言に当初は不快な感情を露骨に浮き上がらせていた蔵部先生も、母の余りに物凄い剣幕に気圧されて、徐々に後退を余儀無くされている気配であった。白皙の陰気な膚に珍しく朱色の怒りを燃え立たせて、眦を決した母の脳裡には最早、正常な理知など全く残っていないように思われた。こんな風に彼女の血相を豹変させた直接的な契機が、蔵部先生の頼りないような、傲岸不遜であるような、何とも捉え処のない、少なくとも母の内心の不安には寄り添うことのなかった診察の方法に存することは概ね確かな事実であるが、引鉄だけで銃弾を発射することが出来ないように、その背景には営々と蓄積された切ない憤懣が関わっているに違いなかった。既に述べた通り、男という生き物の救い難い習性に疎いまま齢を重ね、偶然の導きによって桐原惺の妻に迎えられた彼女は、婚姻という決断の向こう岸に待ち構える様々な障碍や懸念に就いて、人並み以上に無知であった。
「言うに事欠いて、気狂い扱いかよ」
 母は蔵部先生の白衣の胸倉へ華奢な指先を伸ばし、力強く掴んで引き寄せた。間近に迫った先生の鼻先へ息を吹き掛けるように、彼女は苛々した口調で更に言い募った。
「あんたの心臓に、穴、開けてやろうか」
「何を言い出すのかね」
「文字通りの意味よ」
 顫える唇の端を捲り上げながら、母は確かに脅迫の言辞を弄した。私は婦長が引き下ろした乳母車の幌の影に覆われて息を潜めながら、亀の子のように柔らかな首を竦めていた。全く、こんな奇想天外で剣呑な成り行きに、この古色蒼然たる医院の内部が占有されるとは、事前には誰も予測していなかったに違いない。今は先頭を切って揉め事を煽り立てつつある母親にしても、こんな厄介な喧嘩を仕掛ける積りは、微塵も持ち合わせていなかった筈だ。然し、勃発してしまった血腥い闘争を、この期に及んで食い止められる人物は、この狭隘な空間には一人も存在しなかった。追い詰められた医者と、茫然自失の婦長と、猛り狂った女と、無口な赤ん坊。この四つの項目を如何なる線条で結び合わせてみても、効果的な解決策を導き出すことは不可能に等しかった。
「心臓に毛でも生やさなきゃ、遣ってらんないわよ、母親なんて」
 幌に遮られた私の躰へ向かって、母親の苦り切った声音が生温い風のように吹き寄せてきたので、思わず私は蚕のように身を硬くして黙然と慄いた。漸く上陸した台風の気配が濃厚に立ち籠める夏の午後の街路を走り抜けて、辛うじて安全な自宅の内側へ帰り着いたような、その瞬間に幅の広い掃出しを庇護する電動シャッターが強風に煽られてがしゃんと不穏な音を立てたような、そういう息苦しさが私の小さな胸裏を塞いで、乱暴に押さえ付けていた。紛れもなく母でありながら、その瞬間の母は全く異質な存在、異形の魔物へと化身してしまったように感じられた。幌の向こう側で彼女は猶も、動顛し憔悴しつつある憐れな蔵部先生を弾劾するような言葉を次々と吐き出し続けていた。その尽きせぬ情熱の母胎が奈辺に潜んでいたのか、今となっては稠密な検討を加えることさえも空恐ろしい決死の暴挙のようだ。
「君の息子に異常はない。私は私の診断に矜りを持っている」
「あんたの矜りなんか知ったことじゃないわ。何の問題もないなんて、そんな筈がないじゃないの」
「君のお義父さんだって、孫に異常がないと知れば安心するだろう」
「そんな生易しい話じゃないのよ、あんただって親戚くらいいるから分かるでしょうよ、万が一お義父さんが良いと言ったって他にもゾロゾロうるせえババアどもやジジイどもが雁首揃えて診断書を待ち受けてんのよ、何もなかったなんて気軽に報告したって、今更彼奴らのプライドが収拾つかないのよ、それくらいあんただって年の功で想像つかないの、仮にも医者でしょう、色んな患者診てきたんじゃないの、あんた馬鹿なんじゃないの」
 口角泡を飛ばすという表現は正に、この瞬間の為に発明されたのではないかと思われるほど適切で絶妙な描写力を備えていた。劇しい怒りを生々しい暴力の形で剥き出すのではなく、異様な饒舌さの荒波へ溶かし込もうとする母親の歪んだ面差しを、私は幌の暗がりに隠れて妄想した。一体、彼女は何に怒っているのだろう? 私のことが本当に心配で堪らないのなら、老練な医者に何の異常もないと診断されて安堵はしても、その診断に納得が行かないと牙を剥き出して喚き立てるのは常軌を逸した振舞いではなかろうか? 彼女の怒りの本質は奈辺に存在するのか? その露わに表出された苛烈な瞋恚の根源は、果たして息子に対する真摯な慈愛であると言い得るのか?