サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「古都」 4

 毎年の夏の休暇に、母の郷里である京都へ帰省するのは、私の幼年期から続く我が家の慣習であった。蝉時雨が一斉に間断なく行われる打ち水のように姦しく鳴り響く古びた街衢へ、幼い私は何時も華やいだ特別な気持ちで旅した。東京駅から新幹線に乗り込み、母の手作りの弁当を頬張り、素晴らしい速度で後ろへ流れていく見慣れない景色に、飽きもせず視線を委ね続けるのが、夏の儀式であった。盆休みは、父の仕事が忙しいので、帰省は大抵、七月の終わりか八月の末にずらされた。
 伏見稲荷大社に程近い伯母の家へ立ち寄るのも、その儀式の一環であった。淑やかに女の子らしく振舞うより、快活な少年のように躰を動かすのが好きな秋南は、然るべき男から人形のように愛される可愛らしい娘を望んだ伯母の教育方針にいつも背いていた。サッカーやバスケットボールに熱烈な関心を持ち、四六時中戸外を駆け回って胡桃のように日焼けし、膝頭や肘や場合によっては頬にさえ掠り傷の血を滲ませて帰ってくる活発な娘の気質は、純白の滑らかな肌を日傘の下に潜めた「深窓の令嬢」に憧れる伯母の眼には恐らく、苛立たしい深刻な「謀叛」として映じたに違いない。無論、私としては、一家の逆賊たるお転婆の秋南は頗る好都合な遊び相手であった。少し年上の明るく快活な女の子、例えば宝が池の公園で、淀競馬場の芝生で、私たちは縺れ合うサッカーボールのように地面の上を転げ回り、草いきれと汗の雫と日盛りの陽光に塗れて、肉体の輪郭さえ知らぬ間に破れてしまいそうだった。秋南には兄が二人おり、野球や水泳に熱中する逞しい少年たちであったから、自然とその影響を受けたのだろう。私たちは子供らしい歓びに打ち震え、日常を縛る様々な規則(家庭の躾や校則、或いは手を挙げて横断歩道を渡れという下らない交通安全のマナー)を、親の眼を盗んで古びた金網のように食い破ることに悪人の愉悦と禁断の興奮を見出した。血が騒ぎ立てる常夏の太陽、蒸風呂と化した京都盆地の酷烈な陽射し。夥しい神社仏閣へ遊びに行っても、私たちは神妙で敬虔な顔つきとは無縁で、新しい悪戯を案出する作業に余念がない。だから、秋南の顔を思い出す度に私は、滾り立つ鍋の湯のように揺らぐ広大な蒼穹へ、誰かの悪戯のように打ち上げられた一条の飛行機雲のような、明るい夏の景色を反射的に眼裏へ描いてしまう。伯父の運転で若狭湾へ出掛けたときの、蹠に触れる熱い白砂のような、秋南の躍動する笑顔が、焼き付けられた鮮明なフィルムのように、私の記憶から剝がれない。それからたった十数年が過ぎ去って、彼女は純白の骨と化した。焼かれても猶、彼女の骨は余り崩れずに頼もしい輪郭を保っていて、自分の感情に絶えず忠実に振舞おうとした生前の面影を偲ばせて、葬列の嗚咽を余計に煽った。
 東京へ憧れるのは京都という街が嫌いだったからではなくて、自分の存在を呪縛する総ての忌まわしい制約にさよならを告げる為だったのだろう。だが、そんな凡庸な分析を故人に向かって試みたところで、位牌の向こうの彼女に何が伝えられるだろう。既に白い灰の砕片に分解され、永久に地上を去った魂に向かって、どんな感動的な弔辞を捧げてみたところで、それは生き残った人々自身の物哀しい気休め、自己憐憫の反照に過ぎない。生死の境界線の彼方へ、自分の翼で勝手に飛び翔ってしまった、最後まで我儘で勇敢だった、たった一人の従妹。燦然と輝く夏の太陽の迎えた終末。だが、一体伸ばした指先に何が触れれば、彼女は充たされることが出来たのだろうか。彼岸に旅立って、思い通りに運ばない現実の重苦しい鉄鎖に別れを告げて、それで彼女の魂は本当の慰めを得たのだろうか。分からない。総てを達観したような顔で、毒にも薬にもならない有難い「御言葉」を発する脂ぎった僧侶にも、きっと分からないだろう。
 劇しい驟雨に追われて慌てて民家の軒下に隠れるように、暫く私の実家に居候していた彼女は、京都へ帰らないという断固たる決意を一層磨き上げる為に、仕事を探し始めた。やがて化粧品会社の販売員の勤め口を見つけ、都心の百貨店へ通い出した。華やかな色彩に飾られた典雅な売り場で、夥しい化粧水や乳液や口紅やファンデーションに囲まれて、彼女の新しい生活、彼女が長年に亘って夢見続けてきた「解放された生活」が始まった。幼い頃の、黒檀のように日焼けして泥や埃に塗れながら野外を駆け回っていた秋南の姿が不可能な幻影のように思われるほどに、彼女は肉体的な虚飾の世界へ深入りした。それは皮肉な成り行きだった。女が化粧に血道を上げることの精確な意味を、男である私は巧く理解出来ない。だが、少なくとも春枝伯母にとっては、美しく着飾ったり血色の悪い唇を鮮やかな紅で縁取ったりすることは、男の寵愛を得る為の手段だった。彼女が娘に対して要求する「可愛らしさ」や「女らしさ」とは、要するに蜜蜂を誘惑する真夏の花々のような技巧への熟達を意味していた。そして伯母は、大事な娘が寧ろ花々であることよりも蜜蜂であることを選ぼうとしていることに不満を禁じ得なかったのだ。しかし、母親の支配を免かれる為に故郷を捨てた秋南は、東京で美しい花々を育てる肥料を商うことで生計を立て始めた。花弁が艶やかに潤い、凛々しく立ち上がった睫毛が魔性の視線を形作る。表層に刻まれた数多の傷や汚点を隠す為の、あらゆる種類の薬品が、着飾った女たちの肌の上に寝静まり、男たちの視線を巧妙に欺く。