サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「古都」 3

 強力な空調の吐き出す冷えた空気が、黒い礼服の繊維の一筋毎に深く染み込んだ苛烈な暑気の残滓を払った。降り注ぐ燦爛たる陽射しに堪えかねて緩めていたネクタイを不図思い出し、入念に締め直してから歩き出す。受付で名乗り、神妙な面持ちに一縷の柔らかな微笑を適切な匙加減で織り込んだ初老の女性に掌で示された方へ向かうと、廊下の途中にある喫煙室の硝子越しに父親の老いて丸まった背中を見つけた。関東の私鉄に長く勤める父は、既に定年まで指折り数えて片手で足りた。草臥れた小柄な痩身には家族を食わす為に積み重ねられた膨大な労働の痕跡が随所に刻まれている。ツンドラの辺境に何百年も佇み続ける一本の項垂れた白樺のように。引き戸を静かに開けて、不謹慎かとも思いつつ、父に倣って紙巻を取り出すと、向こうは眠そうな眼を持ち上げて、迷わず着いたかと感動のない低い声で言った。
「春枝伯母ちゃんはどうなの」
「泣き通しだ。充血が治らん。兎みたいな目をしとる」
「母さんは?」
「附き添っとるよ」
 私の父は亀戸生まれの東京人で、母とは仕事を通じて知り合った。関西の気風に骨まで浸かった姻戚の人々に今一つ馴染み切れないものを抱える父に、こんな仏事は嘸かし気苦労だろう。遠浅の海に押し流された筏のように寄る辺ないその立ち姿に憐れみと親しみを覚える私もまた、京都の親族に特段の郷愁は湧かない。秋南とは年が近く、用事があって上京する度に私たちの家を無料の宿屋扱いして顔を出したから、例外的に距離は縮まったが、それでも彼女が故郷でどんな表情で暮らしていたか、その真相は既に墓穴の永久の闇に没しつつある。関西弁は嫌いだと、秋南は幾度も声を潜めて言い、母を苦笑させた。薄味も嫌いや、何もかも嫌やわ、滑らかに耳を撫でる彼女の優柔な訛りに私は典雅な音楽を聴く心持でもあったが、大阪だけちゃう、京都も根っからの商人根性やもん、うちは東京で暮らしたいと愚痴る横顔は常に真摯で、気安い糾弾や慰謝を躊躇わせた。
 だが春枝伯母は、素敵な花婿を捕まえる気配も見せずに、手前勝手に生きる娘の上京(但し伯母は「上京」という表現を、東京へ行くという意味では断じて用いなかった)に絶えず断固たる反対を貫いた。秋南が家に来て、故郷に縛られる苦痛を嘆じる度に、私たちは彼女の演じる冷笑的な伯母の物真似を見物させられた。東京は冷たいところや。あんたなんか、身包み剥がれて荒川の河川敷に抛られるで。春枝伯母が荒川の河川敷に如何なる先入観を持っているのか知らないが、千年王城の郷里に対する愛着は、娘の骨髄にも水銀のように染みていた。それを踏み越えることが彼女の内なる戦いだった。自裁は敗北の形態だろうか。それを先立たれた伯母に問うのは酷だろう。
 結婚して船橋に移り住むまで、私は両親と妹と一緒に亀有の実家に暮らしていた。駅から歩いて十五分ほどの家に、秋南から電話が入る。今夜、泊めてもらってもいいかしら。可愛い姪っ子の頼みを一蹴するような母ではない。春枝伯母と秋南が必ずしも睦まじい仲でないことは、何時からか常識になって、あんまり甘い顔をするのも義姉さんに悪いと、父は渋面を作った。だからって、うちが受け容れなかったら、あの子は悪い道に走るかも知れないでしょ。ほんのり関西の音律が香る標準語の行き届いた反駁は、淑やかな外見と裏腹に強情な母の内面を露わにしていて、父の戦意は大抵長続きしなかった。そもそも、私の父は口喧しい抽象的な議論というものが嫌いだった。
 私が船橋の質素なアパートに移り住んで慎ましい新婚生活を営み始めたばかりの頃、秋南は伯母と一世一代の大喧嘩をやらかして、煮えた薬缶のように感情を滾らせながら突然、東京へ来た。もう金輪際、京都には帰らへんと息巻き、日頃は姪っ子に甘い母も、親子喧嘩の片棒を担ぐのは良くないという父の簡潔な意見を汲んで、事態が致命的な状態へ至らぬよう懇切な説得に努めたが、湯気を噴き上げる彼女の精神を冷ますのは困難であった。伯母から何度も電話が来て、荒々しい言葉の応酬に実家の団欒は幾度も水を差されたらしい。彼女は東京で仕事を探すから、それまで間借りさせてくれと私の両親に頼み、無理に京都へ帰らしたら刃傷沙汰になるかもしれへんわと、怖気付いた母が首を縦に振った。姉と姪の板挟みで苦しむ母は、だから安易に甘い顔をするなと言ったんだと苦り切る父に、しょうがないでしょと泣きながら刃向かった。修羅場に巻き込まれる前に家を出た私は、己の幸運を密かに祝った。だが、今となっては、それも空々しい所感に過ぎないのだ。
 結局のところ、彼女が求めたものは何であったのか、屍に問い掛けても、冷えた唇は動かない。今更、慌てふためきながら、故人の真意を量ろうとするのなら、生前に彼是と訊ねて寄り添ってやればよかったのだ。怠慢の債務は、生き残った人々に覆い被さる。遺影は、笑っていた。伯母は教会で葬儀をやろうとしたが、親族の反対に遭って仏式に甘んじた。真宗の僧侶が袈裟を翻して、単調な読経に時を費やし、焼香の列が沈黙の中を進んだ。出棺の時刻が来て、弔問の客たちがぞろぞろと出口に向かう。泣き腫らした伯母が、会葬の客たちに丁寧に挨拶し、母がその傍らで姉の傷心と慟哭を労わっている。粛然たる儀式、総てが手遅れの、哀しい段取り。父は黙って会場の壁際に立ち、姉妹の美しい支え合いに眼差しを注いでいた。その双眸は渇いている。涙に包まれた会場を、霊柩車は静かに離れた。私たちはマイクロバスに詰め込まれ、山科の斎場へ出発した。