サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ヘルパンギーナ」 4

「大きく口を開けてごらん、坊や」
 一歳の誕生日を過ぎた幼児の不貞腐れたような真顔を老眼鏡越しに鋭く睨み据えて、老い耄れた医者は灰白色の立派な眉を顰めた。伸び放題に伸び切った眉毛の尖端は栄養が行き届かない所為もあって猫の毛のように細く繊弱に見える。私は黙って年老いた医者の皺だらけの顔を見凝め、弛んだ皮膚の光沢の無さを飽くなき探究心で見物し続けた。
「大人しいね。まあ、未だ一歳になったばかりでしょう。物を言わんでも奇異ではない」
「でも、殆ど声も出さないんです。喃語と言うんですか? そういう、意味のない音も出さないのです」
「思慮深いのかも知らん。訳の分からんことは口に出したくないと。そういう気質なんじゃありませんか」
「気質って、そういう問題じゃあないでしょう」
 蔵部先生は老境に至って色々な世俗の煩悶を超越しておられるのか、殆ど声も喃語も発さない幼児の発育に気を揉んでいる新米の母親の苦悩を、実にあっさりと無責任に蹴飛ばして、眉毛同様、随分と痩せてひ弱くなってしまった純白の口髭を指先で漫然と捻り続けた。個人差があるというのは尤もな正論であるが、普通の幼児ならば誰でも小鳥の囀りのように傍からは確りと意味が取れずとも本人としては何らかの意味を籠めて発している不可解な発声が、殆ど絶無と称してよいほど聞こえないのだから、そう簡単に個人差という魔法の呪文で片付けられても母としては納得しかねるのである。普通、患者やその附き添い人というのは医者に対して縋るような期待を以て診察を求めるのであり、そこで冷淡な対応を示されれば苛立つのは当然の現象であろう。私の母は頗る平均的な人格の所有者であったから、蔵部先生の暢気極まる診断に柳眉を逆立てるのは、強かに呑み過ぎた後の胃の腑の逆流と同等の止むを得ない成り行きなのである。
「いやあ、奥さん。気質というのは、寧ろこういう幼い時分にこそ、はっきりと顕れるのですな」
 母の露骨な苛立ちを一向に気に留める様子もなく、蔵部先生は持ち前の春風駘蕩たる気質と積み重ねた年功の豊かな稔りに支えられて、幼児の発育に関する年季の入った持論を惜しげもなく開陳した。だが、気質というものが「三つ子の魂百まで」という古来の俚諺に表現されている通り、未だ碌に口も利けない年頃のうちから着々と完成されているという具合の省察を出し抜けに、厳かな口調で語って聞かせられたところで、母の立場にしてみれば話の筋目自体が的外れなのだから感銘も糞もない。寧ろ却って蔵部先生の医者としての技能に対する不信と、加齢ゆえの衰弱の著しさに対する確信を、同時並行で高めてしまうばかりだ。
「何でもかんでも、発育は早い方が宜しいと思い込むのは、間違いですな。少なくとも私は、そのように考えております」
「ですが、声も出さないんですよ」
「ですから、口の中に特段の異常はありませんよ。舌も口蓋も人並みだ。器質的な欠損は認められませんな。安心しなさい」
「安心なんか出来ません。現にこの子は物も言わないし、赤ん坊らしい声も出さないんです」
 唯でさえ逆立っている柳眉をポートタワーの如く猛然と吊り上げて、母は蔵部先生の重たげな瞼に埋もれている色の薄い黒眼を堂々と睨みつけた。こういう場合、母親の本能というのは破天荒なほどに逞しくなるものだ。彼女は蔵部先生の誠意を疑い、医者としての篤実さを疑い、彼が息子の緘黙に対して真剣な顧慮を示さないことに関して、マグマのような不満を溜め込み、高ぶらせつつあった。
「そうは言ってもね、君の息子は健康だ。ほら、こっちへおいで」
 乳母車に鎮座したまま、真珠のように円らな瞳で年老いた医者の長過ぎる眉を見凝めていた私は、彼の誘惑に微塵も反応せず、寧ろ柔らかい小さな唇を頑迷なほどに真直ぐ引き結んだ。僅かに身を強張らせて、私の隠された本性に厳密なメスを差し入れようともしない老爺の油断に、密かに安堵の溜息を漏らす。だが、問題は母親の機嫌であり、その胸底に新たに萌した医者への度し難い不信感であった。彼女は、蔵部先生の老衰が愈々深刻な段階に達しつつあることを、抑え難い悪意と共に確信しつつあった。若しも彼が義父の親友でなかったら、こんな古ぼけた蒼然たる潰れかけの開業医の門扉を敲くなど、絶対に有り得なかったに違いないと、彼女は自分の置かれている境遇の具合の悪さに心理的に歯咬みした。そもそも、こんなに入り組んだ複雑な血縁関係の渦中に、ほんの出来心で足を踏み入れたこと自体が、本質的な過ちであったのだ。彼女は現在の夫、極めて凡庸な男に過ぎない桐原惺と戸籍を重ね合うまでは長らく、殿方という存在と昵懇になった例がなく、従って男という動物の特性や本質を見抜く為の眼力の錬磨に就いて、年齢に釣り合わぬほど恐ろしく未成熟な状態であった。桐原家の長子に嫁ぐという決断が如何なる性質の未来図を招き寄せるものなのか、それさえ自分の頭では精密に判断しかねる体たらくであったのだ。男、或いは牡と端的に呼び換えても構わない、そういう存在と結び合い、互いの肉体と精神の細部にまで吐息を届かせ、舌先を這い回らせたとしても、それだけで相手の本質を、魂魄の絡繰を明瞭に解析し得たなどと思い込んではならない。結局、玉葱の皮を幾ら剥いても束の間の「深部」だけが視界へ広がるように、男の正体を見極める為には何度も交わるくらいのことでは少しも解決に繋がらないのだ。それが答えであり、最終的な本質だと確信してみたところで、暴かれた真実の側が、そのような身勝手な結論に色目を遣う義理はない。桐原惺の人格的な瑕疵だけではなく、彼個人と付き合っているだけでは決して見えて来ない、いわば血の錯綜のようなものが、婚姻した後の母の視野には頻繁に映じるようになったのである。それは母に限らず、世間の誰にでも共通して襲い掛かる社会的な宿命なのであり、彼女だけが苛立ったり憤慨したり悲嘆したりするのは少し自己陶酔が過ぎるのであるが、そういう一般論的なバランスを考慮する精神的余裕を保ち得ないほどに、黴臭い医院の診察室へ通されて息子を粗笨に扱われた桐原峯子の不満は底知れぬ強度を湛えていた。一体、この老い耄れは真面目にこの子の不調を、その本質的な要因を捕捉しようという至極当たり前の医学的な情熱を、きちんと胸の中に宿らせているのだろうか? 鈍くなった脳味噌の回転、弱まるばかりの心臓の喘ぐような脈拍、そうした身体的な衰弱の徴候と共に、医者としての職業的な倫理観や理想主義さえも、すっかり使い古されて微細な亀裂に覆われてしまったゴムタイヤの表面のように、頼りなく乾涸びているのではなかろうか? 彼が桐原哲雄との間に特別な親密さを保持していなければ、母は忽ちカバーの破れかかった椅子を蹴立てて乳母車を大仰にUターンさせ、千葉街道に面した立派な総合病院へ、タクシーでも雇って速やかに赴いていたに違いない。だが、不幸にも彼女の義父は蔵部憲吉という地元に根差した老練な医師への信頼を過分に膨れ上がらせている。その絶大な信頼は最早、客観的な証拠など一切必要としないほどに絶大であり無根拠な代物であるから、覆しようがないし、余計な讒言を試みれば却って火の粉は此方へ降り掛かる虞の方が高い。納得が行かないにせよ、老齢の為に限界まで磨き抜かれた強情で不遜な医者の自信は、乗り越えるには余りにも険阻な断崖絶壁であり、母は黙って溜息を吐きながら退却する以外に選択肢を持たなかった。
「先生もこう言ってることだし、あんまり神経質にならない方が良いよ」
 診察室と繋がり合った隣室で医療器具の洗浄やらカルテの整理やら、諸々の医学的な雑務に携わっていた肥満の婦長が、釈然としない様子で項垂れ、無邪気に身を捩ったり頬を膨らませたりする愛息の顔に名状し難い感情を秘めた眼差しを注いでいる我が母親に、励ますような口振りで話し掛け、痩せて骨張った肩口に優しく掌を置いた。その優しさに、私の母親が素直な感謝を懐く理由はなく、却って婦長の見え透いた気遣いは癪に障るかも知れなかった。彼女は不自然な柵というものに、すっかり骨の髄まで草臥れて、自ら選び取った婚姻の素晴らしさと正しささえも、胸を張って正しいと信じられるか、威風堂々と謳歌し得るか、心許ない心理的情況へ落ち込んでいたのだ。
「大体、母親というのは慌ててちゃ駄目よ。母親は、子育ての新米だ、素人だって、言うでしょう? だから、混乱しても仕方ないんだと。けれど、そういうのはあたしに言わせりゃ、甘ちゃんね。赤ん坊は息を吸うのも初めてなのよ。不安だというのなら、そっちの方が比較にならないわ。言葉も分からないし、ミルクの飲み方も知らないのよ。母親は堂々と踏ん反り返ってやらなきゃ、赤ん坊が心配がるわ」
 如何にも世慣れた老練の婦長で御座いますという具合の口振りで滔々と持論を語る婦長の厚かましさに、私の母は沈黙を貫いたまま、凝と堪えていた。蔵部先生は、自分が矢面に立たなくとも良くなったことに気付いたのか、すっかり緊張の糸が千切れたような面構えで立ち上がり、壁際に設けられたシンクに向かって入念に両手を洗い始めた。その単調な水音が鼓膜に触れることも、そのときの尖り切った母親の精神にとっては不愉快な騒めきであった。彼女は殆ど、恨んでいた。恨んでいたという形容が相応しいほどに、その魂の奥底で煮詰められた厄介な憎悪は、凛冽たる響きと共に研ぎ澄まされつつあった。
「おい、ジジイ」
 堪えかねた母親の唇が、甲虫の角に捉えられた辛子明太子のように頼りなく顫えながら開いた。普段の母親からは考えられない、陰気な小声で、その荒々しい口調には明瞭な敵意が迸っていた。水音に掻き消されて聞こえないのか、蔵部先生は彼方此方に染みの目立つ年代物の白衣を纏った背中を、無防備に此方へ晒し続けていた。息を呑んで凍りついた婦長の膨れた鯔のような腹が、私の横たわる乳母車の傍で、微かな熱気を発していた。