サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 1

 椿つばきは幼い頃から読書を好んだ。文字に興味を覚えるのも早く、平仮名や片仮名を目敏く見つけては、両親に読み方を教えろと忙しなくせがんだ。どんな遊びよりも絵本の読み聞かせを最も深く愛し、どんな奇怪な空想でも、見知らぬ異郷の物語でも易々と受け容れた。その習慣は長じても変わらず、学校の勉強に精を出すことよりも、級友たちのように部活動へ情熱を燃やすことよりも、暇を見つけては古今東西の様々な小説の頁を捲ることに最大の至福を覚えた。
 両親が特別に読書家だったという訳ではない。父親の立派な書棚には、年季の入った愛蔵の古書が夥しく背革を列ねていたが、その殆どは法律書の類で、荒唐無稽な絵空事を描いたものは皆無に等しかった。母親もまた多くの書物を有していたが、その過半は園芸や裁縫や料理に関する豊富な図版の束で、文字よりも写真が重要な役割を担っているものに限られていた。椿の両親が絵本の読み聞かせに熱心だったのは、娘の主体的な向学心を損なうことを懼れた為で、彼ら自身が物語の世界に耽溺する快楽に対して貪婪な性質を備えていた訳ではなかった。
 昔の作家の年譜や経歴を渉猟すると、文学に開眼した為に学業を怠り、場合によっては退学や放校といった末路を歩む事例が数多く散見する。日頃は余り耳慣れない「濫読」という言葉が、彼らの青春時代を象徴する享楽の名前として掲げられる。椿にとっても、書物を繙き、ずらずらと羅列された硬質な文字の群れを辿ることは紛れもない個人的快楽で、何か尤もらしい理想や道徳的正義の為に自己を律している積りではなかった。周囲の友人たちは、熱心な読書家である椿の姿に、敬意と軽蔑の双方を混ぜ合わせた複雑な感想を懐いていた。椿は決して陰気な性格ではなく、口を開けば快活な饒舌を披露するし、様々な物語に通暁している所為か、その話術は巧みで、周りの親愛を集めるのに大きく貢献していた。孤独を愛し、他人との接触を嫌うがゆえに、空想の世界に逃げ込んでいるという訳ではなかった。確かに彼女は聊か皮肉屋で、権威に阿らず、明晰な論理を滑らかに操る無頼な少女という自画像を好んでいたが、殊更に正論を振り翳して他人の事情に介入したり尊大な批評を試みたりする悪癖とは無縁であった。他人に無関心という訳でもなく、寧ろ色々な人間の色々な習性や生態を観察することに就いては至極熱心で、そうした生得の気質が、書物の世界に棲む多様な人物への関心を育てたのか、或いは反対に、架空の物語への耽溺が人間観察の趣味を培ったのか、その辺りの消息は最早判然としなかった。
 椿の読書に関する嗜好は雑食で、難解なものも平易なものも選り好みせずに、頑丈な牙を剝き出して次々と咀嚼し嚥下した。作者が日本人であろうがフランス人であろうがブラジル人であろうが、そんなことは彼女の審美的な基準に何の影響も及ぼさなかった。小学生の頃から、椿は自分に相応しい作品だけを読むという慣習を冷然と踏み躙っていた。つまり現在の自分のような境遇の人間(二〇世紀末に生まれた日本の中流家庭の少女)を読者に想定して書かれた作品だけを啄むという従順な家畜の振舞いを、彼女は半ば本能的に一蹴していたのである。寧ろ椿は、自分の置かれている現実から遠く隔たった世界を扱った作品へ積極的に手を伸ばした。二十一世紀初頭の日本に暮らす平凡な学生の所属する現実と近しい内容の小説をわざわざ読んでみたところで、退屈な眠気が兆すことは事前に分かり切っていたからだ。慣れ親しんだ現実の単調な模写を求めて、彼女は濫読の境涯を生きている訳ではなかった。胸焼けするような量産型の現実を蹴飛ばして、日頃は隠されている社会の暗部や裏道を覗き込み、大人たちの論じる美しい理想や溌溂たる正義の猥雑な「楽屋」を暴きたいという野蛮な衝動、綺麗事を吹き飛ばすような精神のテロリズム、それが椿にとって読書の極上の醍醐味であった。
 だから地元の高校を卒業し、就職の役に立たないから文学部は止せと訳知り顔の担任に言われた腹癒せで、或る国立大学の英文科へ進んだ頃の椿はもう、男女の恋愛に関しては一通り、成熟した女の吐きそうな品質の一家言を豊富に品揃えしていた。但し現実の色恋沙汰に関しては、歓びよりも倦怠を覚えることの方が多かった。高校一年生のときに処女を捧げたテニス部の爽やかな短髪も、高校二年生の夏休みに夕暮れの砂浜で交わったラグビー部の猛牛のような坊主頭も、不器用なセックスと不足した教養で、椿の純情な恋心を急速に冷却してくれた。男の価値はペニスの大小と包茎かどうかで決まると本気で信じ込んでいる同じクラスの初心な男子から、卒業式の後に体育館の裏で妙に気取った愛の告白を押し売りされたときも、彼女の恋心は麻酔を打たれた海象のように身動ぎもせず、寝返りすら打たなかった。こいつの注射器は十八歳にして種切れなんじゃないかと内心で毒づきながら、椿は男子の純朴な瞳を真っ直ぐに見凝めて、ごめんね他に好きな人がいるのと、明晰な発音で淑やかに答えてみせた。