サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 2

 大学に進んだ後も、椿の魂を奥底から震撼する力を備えた男性との出逢いは中々得られなかった。聊か怠惰で、生真面目で情熱的な大学生を演じる意欲も欠いていた彼女は、入学を機に今までの自分を改革しようなどという殊勝な心掛とは無縁だった。だから、周囲の級友たちが限界まで履修登録を詰め込み、サークル活動やお洒落なアルバイトに精を出し、浮薄な人脈を蜘蛛の巣のように果てしなく広げていこうと齷齪する姿を目の当たりにしても、特に焦躁を掻き立てられたりはせず、他人事は他人事として適切な距離を保って接する方針を貫いた。
 周りがテニスやスノーボードやフットサルや連日の飲み会に明け暮れているのを尻目に、椿は近現代文学研究会という地味で不活発な、日の当たらないサークルを選んで入部の届を出した。別に文学の研究に血道を上げようという誠実な野心があった訳ではない。要するに彼女は暇を持て余していたのだ。けれども、騒がしい集まりに属して官能的な下心に塗れた社交の日々に時間を費やすことには余り関心を持てなかったし、だからと言って環境問題や貧困問題に取り組む社会派の廉潔な集まりに加わるのも趣味に合わなかった。尤も、彼女が殊更に周りの人間を見下し、如何なる交流も持たないよう孤高の姿勢を堅持していたという訳ではない。群れに紛れているときの彼女は、誰とでも分け隔てなく活発に言葉を交わし、その場所や面子に応じた適切な話題の選択に優れた嗅覚を発揮して、軟水のように人々の隙間へ染み込んだ。ただ、孤りで過ごしているときは、行き届いた気遣いや社交的な計算にカロリーを注ぎ込むのは嫌だったし、少なくとも生活の中の一定の時間を、他の誰でもない自分自身の為にこっそりと確保しておくことは、長い年月に亘って彼女が頑なに守り続けてきた重要な習慣であった。
 近現代文学研究会に集まった少数の人々は、如何にも社会的な脚光から見放されたような風貌だったが、実際に話してみれば銘々に素敵な個性が備わっており、それぞれ多様な愛読書を頭の中の書棚に並べていて、椿にとっては貴重な人脈となった。中高生時代の彼女にとって慢性的な不満の種は、周りの友人たちが誰一人として日常的に小説を読む習慣を持っていないことだったから、その研究会で知り合った市井の読書家たちは稀有な話し相手であった。或る作品に就いての感想が互いに食い違っていても、椿はそうした意見の相違を挑戦的な刺激として受け止めた。尤も、その研究会に属する男子の中に、彼女の恋心を触発する人物は残念ながら含まれていなかった。畜生、惜しいな、と彼女は思った。眼の前で「ボヴァリー夫人」に就いて熱っぽい口調で滔々と論じる黒縁眼鏡の男の子が、こんなに脂ぎった浅黒い丸顔ではなく、もっと透明で清潔な白皙の肌の持ち主で、尚且つ黄ばんだ前歯でなければ良かったのに。椿はその沢村という男子の無闇に長ったらしい睫毛を見凝めながら、家に帰ったら久々にジュリアン・バーンズの「フローベールの鸚鵡」でも読もうかなと考えていた。一方の沢村は、聊かも物怖じせずに直球の真摯な眼差しを向けてくる椿の艶やかな漆黒の瞳に鼓動を高鳴らせ、若しかしてこの女は博識で弁の立つ俺に特別な好意を寄せているんじゃないかと順調に誤解を増殖させつつあった。
 素朴な博愛主義は時に、男女の愛慾に満ちた駆け引きの空間において、悲惨な罪深さを発揮することがある。友情と愛情とを厳格に区別する身持ちの堅い人々ならば蒼褪めるような気安さを、無辜の博愛主義者は遠慮も含羞も華々しく踏み躙りながら、全方位へ軽やかに放射してしまうのだ。良くも悪くも他人の生態を観察することが好みで、地道なフィールドワークに生涯を捧げる民俗学者のように、立ち入りの禁じられた聖域さえ踏破しようと企ててしまう椿のことを、尻軽な阿婆擦れだと誤認する男は決して少数派ではなかった。好きでもない男に、一般的には付き合い始めたばかりの恋人でなければ示さないだろうと思われる熱烈な関心を惜しげもなく垣間見せる椿の振舞いは、数多の男心を惑わせ、数多の女心を苛立たせた。しかし椿は、女友達の披露する婉曲な自慢や凡庸な悩み事や無益な愚痴にも粘り強く耳を傾け、浴室の排水溝のようにあらゆる穢れを吸い込む物好きな習慣の持ち主であったから、結果として彼女への嫉視や侮蔑は相殺され、露骨な爪弾きや迫害は余り起こらなかった。
 或る飲み会の帰り道、珍しく酒量を過ごして具合の悪くなった椿に、沢村が介添えを申し出て、同じ電車に乗ったことがあった。不快なベースラインのようにしつこく唸り続ける嘔気と戦いながら、瞼を閉じて天を仰ぐ椿の蒼白い手を、沢村の汗ばんだ逞しい指先が包み込んだ。椿はゆっくりと眼を開き、徐に頭を回らして、自分の冷え切った手の甲に覆い被さった沢村の粘っこく丸っこい手を無言で睨み据えた。
「ねえ、何?」
「いや、寒いかなと思って」
「いや、寒くねえし」
 感情的な抑揚を欠いて発せられた椿の声は、日頃の無意識的な博愛主義を裏切るような無意識的冷淡さに鎧われていた。沢村は火傷を負ったみたいに素速く手を引っ込め、土竜の如く首を竦めて、大変申し訳ないが急用を思い出したと言い残し、次の駅で慌ただしく下車していった。その惨めな後姿を黙って見送りながら椿は、糞っ垂れのシャルル・ボヴァリー、と小声で呟き、冷え切った掌を火照った額に宛がって、再び眼を瞑った。