サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 3

 椿は虚しい高望みに魂を引き摺られて、次々と枕を取り換える移り気な女の子だったのだろうか? 傍目には、そういう好ましくない道徳的評価が適切であるように見えることも少なくなかったに違いない。彼女の持ち前の無責任な博愛主義、殆ど趣味的な博愛主義が、多くの異性を誤解させ、結果的に欺き、弄ぶ結果に帰着することは、稀少な事件であるとは言えなかった。しかし、既に述べた通り、彼女は他人の生態を観察し、心理的な絡繰を究明することに私的な情熱を捧げていただけであって、しかも質の悪いことに、彼女の聊か不遜で勇敢な性格は、自分の感情や考えを誤解されたり買い被られたりすることを殆ど懼れなかった。彼女の言い分としては、安易に惚れられていると思い込む男たちの純情が、そもそも愚かしい幼稚な発想なのだ。だが、他人の純情を嘲笑する者の為に、誠実な弁護人の役回りを引き受けようと思い立つ御人好しは、この世界には余り多くない。
 勿論、彼女にも人並みの恋心はあり、性的な接触に対する欲望も備わっていた。だから、果敢な人間観察のフィールドワークの最中に、思わぬ局面で魂の引鉄を絞られ、吸い込まれるように官能的な一夜を過ごすことは、彼女にとっては特別な事故ではなかった。それを尻軽だとか阿婆擦れだとか罵ったり陰口を叩いたりする連中の奇妙な道徳的純情を、椿自身は日頃から疑っていた。そういう潔癖な言種が果たしてどこまで本物だと言えるのか、彼女は確信を持てなかった。頻繁なコミュニケーションの過程で不意に旋風が吹き抜けるように何らかの心理的事故が勃発し、結果として恋に落ちる。恋に落ちれば、相手の躰に触れて強く抱きしめたいと願うのも、相手の存在の最も脆弱で内密な領域に侵入してみたいと欲するのも、自然な衝動ではないか。別に結婚している訳でもないのだし、恋愛の誠実さは交際期間の長短で一律に定まるものでもない。大体、他人の恋愛に彼是と嘴を挿し入れるのは下賤な趣味だ。他人の色恋を肴にして姦しく囀り合う暇があったら、さっさと自分自身の色恋の進展に向けて労力を支払うべきではないか。公に開示すれば猶更嫌われそうな言い分に基づいて、椿は狭い世界に蔓延するささやかな風評を振り向きもせず、飽く迄も自分自身の生活に気持ちを集中させる誇り高い習慣を堅持した。
 大学一年生の終わりに、彼女は二つ年上の武岡亘祐たけおかこうすけという先輩と関係を持ち、所謂「両性の合意」に基づいた対等な、つまりパブリックな交際を開始した。言い換えれば、椿は亘祐との関係を一夜限りの偶発的な事故に留めるのではなく、持続的な関係に切り替えることに賛同したのだ。それは椿にとっては確かに珍しい決断で、だからこそ周囲の人々は彼女の恋愛に関する習癖を「尻軽」という不名誉な蔑称で表現したのだったが、そもそも椿にとって多くの男子は純然たる観察の対象であり、酷い場合には、性的な関係を持つことさえも好奇心に背中を押された「観察」の一環であったのだ。無論、それは相手の側においても時々は真理だった。誰もが椿という女性を心の底から真摯に愛し、魂をプディングのように揺さ振られた上でベッドに誘う訳ではなかった。彼らが一時的な人恋しさや肉体的な欲望を紛らす為に一夜の関係を求めるように、彼女もまた一時的な好奇心に操られて密室へ閉じ籠り、あられもなく股を開くことを諒承するのだった。
 多くの場合、一夜限りの関係は蜃気楼のように具体的な果実を齎さぬままに消え去った。時期が来れば水が干上がる湖のように、夜明けが訪れる頃には、官能的な悦楽によって紡ぎ出された親密な幻影は跡形もなかった。それで別段、不都合が生じる訳ではなかった。少なくとも椿の側では、そのアバンチュール(聊か古めかしい表現だが)に特権的な価値も将来への期待も求めていなかった。終生の伴侶を探し求め、自分の人生に或る明瞭で揺るぎない箍を嵌めたいという願望に囚われるには、当時の彼女は未だ若く、可塑的であり過ぎた。
 だから、亘祐との関係もまた、それほど深刻な決意に基づいて火蓋を切られた訳ではなかった。単に彼女は、この一夜の関係が反復されることに不満を覚えず、忌まわしい倦怠を感じることもない自分自身の素直な感情を、起き抜けのシングルベッドの上で一つの薄汚れた啓示のように発見しただけだった。何の変哲もない、内装だけを綺麗に革めた古びたホテル(椿はそれを古い小説から拝借した「連込み」という名で敢えて呼ぶことを好んだ)の一室で、関節の仄かな軋みを感じながら、横で眠っている裸の男の肌が少しも脂っぽくならず、規則正しい寝息と、律儀に閉じられた唇を、カーテン越しに射す朝の光に晒しているのを眺めて、椿は悪くないと思った。ぎらぎらした欲望を下品なほど、毛穴や瞳や振り立てる腰回りに滲ませる野生の猿のように貪婪な少年たちと、亘祐は異質な存在であるように思われた。それだけでも、彼女の旺盛な好奇心は充分に唆られた。新しい種類の「男」を発見したような興奮が、密かに彼女の五体を濡らしていた。