サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 8

 吹き荒れる夥しい官能的な火箭の嵐を潜り抜けて、椿の生活は潔癖な修道女のように無垢な日課を刻み続けた。別に生来の豊富な好奇心が、燃え尽きた蝋燭のように涸渇したという訳ではない。ただ、彼女は昔の軽薄な人懐っこさを慎重に排除し、他人との適切な距離を測定することにずっと注意深くなった。人と人との絆が孕んでいる危険な意味を、亘祐との離別が強かに思い知らせ、学ばせたのだ。相手の身勝手な勘違いが原因であったとしても、過去の自分が似たような失恋の痛みを他人に強いていたかも知れないと考えることは、今の椿にとって重大な懸念と反省の源だった。誤解させること、それ自体が既に一つの残酷な罪悪なのだ。安易に一線を踏み越えて裸体を交えること、本来ならば合致する見込みのない二つの異質な図形を、軽々しく重ね合わせて恥じらいもしないこと、そこに生じる僅かな齟齬や歪を軽視すること、そうした一切の野卑な不品行が、今や彼女の眼には堪え難いほど不毛な時間に思われた。
 だが、椿の禁欲的な思索は明らかに、亘祐との滑らかな破綻の後遺症で、厳しい道徳的反省の堅持は却って、傷口の快癒を妨げる逆説的な弊害を齎していた。行動を革めようと意気込むほどに、彼女の魂は本来の瑞々しい柔軟性を失い、他人との関係は古びた蝶番のように耳障りな軋り音を立てた。男女の間に静電気の如く舞い散る、複雑で精妙な心理の綾に就いて、以前よりも理解を深めた彼女は、持ち前の野放図な好奇心に轡を咬ませ、安直な行動を忌避するようになった。要するに彼女は附合の悪い人間に変貌したのだ。
 大学三年生の晩秋は、椿にとって人生で最も孤独な季節となった。同学年の友人たちは来るべき就職活動の暗鬱な気配に怯えたり気張ったりしていて、エントリーシートや自己分析といった専門的な用語が学内を姦しく飛び交った。しかし椿は、周囲の喧騒を冷ややかに遠ざけ、気分が向かないと直ぐに講義を欠席して、新宿へ向かう列車に乗り込む悪習を身に着けた。かつての大胆で天真爛漫な椿は消え去り、その横顔には絶えざる憂愁が彫像の陰翳のように纏綿と漂った。辛うじて絶滅せずに復旧したのは濫読の嗜癖だけで、彼女は書物が孤独と極めて親密な関係を有していることに改めて瞠目した。
 新宿には夥しい数の喫茶店があり、充実した品揃えを誇る書店にも事欠かない。その環境は、寂寥に苛まれる椿の寒々しい彷徨に相応しかった。彼女はコンスタンの「アドルフ」を読み、ラディゲの「肉体の悪魔」を繙いた。これだけ厖大な虚無の時間が与えられているのならば、ずっと敬遠してきたプルーストの驚嘆すべき長篇小説にも耽溺することが出来るのではないかと思われた。無糖の珈琲を頼み、暇潰しに覚えた莨を燻らせて、彼女はゆっくりと丹念な指遣いで頁を繰った。一日の間で、他人と活きた言葉を交わす回数は極限まで絞られていた。
 どんなに謹厳な趣の小説を開いても、その片隅には必ず恋愛の刻印が記されていた。人間を描かない小説が存在しないように、愛慾の歓びと苦しみを描かない小説は地上に存在しないのかも知れないと椿は考えた。片想いの悲願が報われ、打ち明けられずに秘めていた感情が相手の魂に触れるまでの過程を描いた作品は、如何に醜悪な策謀や不毛な葛藤を含んでいたとしても、最終的には甘美な感触を彼女の胸底に齎した。しかし、既に契りを結んだ恋人たちの生活を描く作品は決まって、背筋の凍るような地獄の風景を随所に織り込んでいた。愛情という美名で彩られた複雑な心理的合金、即ち執着、憎悪、絶望、誘惑、嫉妬、不信、欲望、怨恨、敵意、虚栄、悲嘆、寂寥などの多様な成分で形成された奇怪な化合物の醜さを、彼女は否が応でも象牙色の紙背に見出さずにはいられなかった。つまり、彼女は未だ亘祐のことを忘れられずにいたのだ。
 それでも熱い珈琲の闇に抱かれて、方形の砂糖が徐々に蝕まれ崩れていくように、椿の恋心は甘美な追憶を剝ぎ取られ、昔日の温度を失っていった。温もりに満ちた日々を思い出さなくなった訳ではない。段々と思い出すことが億劫になり、やがて切ない筈の回想に生々しい情念が伴わなくなっていったのだ。出来事の記憶は、鉄筋の骨組みのように年月を経ても鮮明に保たれるが、その瞬間に味わった感情そのものを甦らせることは難しい。事件の意味は抽象的な符号のように冷凍されるが、事件そのものの肉体的な感触は着実に摩耗し、忘却の彼方へ埋葬されて墓碑さえ遺らない。冷え切った彫像のような記憶は最早、彼女の心を脅かさなかった。生温い珈琲を飲み乾し、縮んだ莨の穂先を灰皿の底に擦り付けて、閉じた文庫本を鞄に蔵って席を立つ。日暮れを迎えた新宿の街衢は炒るような騒音を噴き上げ、忙しない雑踏が排水溝のように椿の華奢な体躯を駅に向かって押し流した。余りに永く寂寥に浸かった所為で、彼女の肌は孤独の冷たさにすっかり馴染んでしまっていた。