サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 12

 早春の柔らかな風が、埃っぽい街衢を懶惰に彩る水曜日の晴れた朝、椿は待ち合わせの場所に指定された本郷の小さな喫茶店で、静かにミラン・クンデラの「冗談」を読んでいた。尤も、充分な集中力を発揮して、その物語の奥地に分け入っていたとは到底言い難い。慌ただしい出掛けに深い考えも持たず、偶然に触れた指先の衝動的な指示に従って抜き取った一冊は、読書への真摯な熱意の賜物ではなく、不透明な揺らぎに苛まれる精神の騒めきを鎮める護符を欲した為だった。頁を幾ら捲っても、印刷された細かい文字の羅列を、普段のように滑らかな動作で様々な情景へ鮮やかに置き換えることは酷く困難に感じられた。遅々として進まない手頸の時針の位置を何度も確かめ、扉が開く度に転がるような音を立てる鈴の呼び声に繰り返し視線の行方を奪われながら、椿は約束の午前十時を僅かに過ぎた店内の穏やかな静寂に歯痒さを覚えた。忙しい勤人に無理な注文を捻じ込んだ厚顔な自分の振舞いを恥じる一方で、落ち着かない待機を強いる辰彦の自然な不在に、彼女は一抹の憤怒さえ懐いていた。その身勝手な憤怒が余りに性急な感情の所産であることを、自覚しない訳ではない。辻褄の合わない無益な苛立ちに、尤もらしい理窟を貼り付ける努力さえ浅ましく思われて、彼女は懸命に己の感情から眼を背けていた。
 前回の面談と同様に、椿は透き通る深紅の誕生石が嵌め込まれた大切なイヤリングで、色白の耳朶を控えめに飾っていた。着慣れない黒の質素なスーツに総身を包み、夕陽と三日月の意匠をあしらった暗い金色の腕時計を帯びて、毛髪は後ろで一筋に束ねた。絵に描いたような就活生の扮装に励む自分自身の姿を俯瞰したら、きっと薄気味悪くて具合が悪くなるだろうと彼女は思った。十時を回った途端に、クンデラの精緻な思弁的文章は一切頭に入らなくなった。他人の複雑な物語に現を抜かしている暇など微塵もない。椿には切実な待ち人があり、流れ去る時間の堆積は徐々に強く深く彼女の心臓を万力のように締め上げていった。待機の姿勢が長引けば長引くほど、期待と不安は幾何級数的に高鳴り、眼に映る総てが不在の人物の迂遠な暗示のように思われた。メシアの到来を待望する敬虔なユダヤ教徒のように、椿は忍耐強い沈黙の内側で蚕の眠りを貪った。
「お待たせしました」
 一瞬の注意力の途絶を狙い澄ましたように放たれた温厚な声音は、椿の鼓膜に心地良い静電気を躍らせた。見上げた面に降り注ぐ眼差しに、特別な恩寵の符牒は見出せなかったが、それでも彼女は浮薄な興奮に魂の深部を力強く揺さ振られた。辰彦は鼠色の地味な背広を翻して、向かいの座席に革鞄を置き、艶やかな檜のカウンターへ一瞥を投じた。顔馴染らしい中年の女の給仕が適切な微笑を閃かせて、注文を取りに歩み寄って来た。その軽やかな足取りの伴っている親密な間合いが、椿の心を密かに波立たせた。
「随分待たせてしまったかな」
「そんなに。本を読んでいたので、気になりませんでした」
「何を読んでいるの」
 殊更に書名を口に出すのは気障な振舞いに思われ、椿は黙って本扉を開き、見易いように角度をつけた。
クンデラか。なかなか渋い趣味だね」
 大仰に感嘆する訳でも、若い女の背伸びを揶揄する訳でもなく、辰彦は至極平淡な口調で小さな感想を述べながら席に着いた。女の給仕が過度な微笑を面に湛えて媚びを売るように話し掛けながら、湯気の立つ縹色はなだいろのマグカップを二人の間に据えたので、椿の表情は自然と強張った。艶のない黒髪の尖端が縮れた茶色に染まっているのが酷く不潔に見えた。早く居なくなればいいと心の奥底で無遠慮に毒づきながら、椿の眼差しは栗鼠の敏捷さで辰彦の視線と表情を追った。彼の頬や額や眦に顕れる軽妙な笑みの徴が、一定の礼儀を慎重に守っていることを確かめると、彼女は漸く僅かばかりの余裕を甦らせた。その礼節は、無邪気な親密さ、厚かましく傲慢な親密さ、怠惰な親密さといった感情の眷属を、注意深く遠ざける為の鎧の役目を担っていた。要するに杜撰な気の許し方を拒もうという冷徹な気構えが見て取れたのだ。それが主観的な濾過を潜り抜けた後の錯覚に過ぎないとしても、当座は満足する以外に途はない。
「あんなに熱心なメールが届くとは考えもしなかったよ」
 吐息を吹き付けて黒い水面を念入りに揺らした後で、彼は静かに一口の苦い珈琲を啜り、マグカップを掌で庇うように囲みながら言った。その科白は重たい水滴のように、店内を浸す無害な音楽の調べに紛れて二人の狭間へ落ちた。椿は何気なくカウンターの方へ上目遣いに視線を走らせた。女の給仕は、空軍のようなジャンパーを羽織った老齢の男性客と、馴れ馴れしい口調で言葉を交わしている最中だった。椿は再び視線を戻して、辰彦の双眸に見入った。眼差しを仕切り直した反動の助けを借りて、堂々と真摯な光を帯びた瞳で、控えめに動く彼の唇の輪郭を縁取った。