サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 11

 川崎辰彦の勤める小さな出版社に、どうにかして雇ってもらおうという厚かましい魂胆が何時から椿の魂の一隅を占めるようになったのか、その明確な日付は曖昧に掠れていた。淡々とした事務的な物腰で、零細企業の哀切な世過ぎの風景を物語る辰彦の野暮ったい口吻が、彼女の秘められた熱情の燃油に、静かな手つきで一滴の種火を散らしたのだろうか。椿自身、その奇妙な回心の適切な理由を、自分の心の内側に探り当てることは出来ずにいた。次々と送り付けられる簡素な落第の文面に、精神の其処彼処を射抜かれて知らず知らず痛みと疲弊を溜め込んでいた為に、きらきらした自己実現の壮麗な教義とは無縁に見える辰彦の素朴な態度が、丁度穿たれた創傷に相応しい清潔な脱脂綿の柔らかさを湛えて感じられたのだろうか。
 辰彦の会社はその年度、新卒向けの定期採用を公募していなかった。時勢に阿って右肩上がりの急成長を望むには、彼の勤め先の取り扱う主力の商材は余りに高尚な堅物だった。専ら大学の研究者や市井のディレッタント華客とくいとして、分厚い専門書や物珍しい海外の文芸作品を高値で商う「衰燈舎」の難解な事業が、洋々たる前途に恵まれていると考える無垢な楽天家は、会社の内外を問わず皆無だった。大体、李賀の著名な漢詩に因んで命名された社名自体、如何にも陰気な自転車操業の風情に包まれていると言うべきだ。消えかかる灯りが尽きてしまわないように、世人の選ばぬ困難な事業に挑戦し、以て人類の歴史と文明に貢献するという創業者の高潔な大志の裡にもう既に、目下の流行り廃りを黙殺する狷介な商売の作法が萌芽していたのだ。
 けれども、椿は固より、出版不況の荒波に漕ぎ出して奇蹟的な起死回生の一手を打ち、歴史的な栄光と世間の喝采を一身に浴びようという壮大な野心とは無縁だった。そうした豪胆な気概が備わっていたら、そもそも有り触れた失恋の痛手を化膿させて孤独な漂泊の時間を積み重ねるような典型的青春に溺れることはなかっただろう。両親の健在である裡に、働いて生計を立てる訓練を重ねておかなければ早晩行き詰まることは必定であったから、止むを得ず腹を括って気の進まない就活とやらに踏み出したに過ぎない。その宛先が煌びやかな脚光に照らされる見込みのない地味な稼業であっても一向に差し支えなかった。会社の名刺で自尊心を高ぶらせたり他人の尊敬を購ったりする世慣れた大人の風習に憧れることもなかった。同世代の野心家たちは、豪奢な看板を背負って街路を威風堂々と往来する権利を勝ち取る為にあらゆる手段を講じていたが、そうした血腥い労役を横目に眺める度、他人事であるというのに椿は深甚な疲労を感じた。
 編集部員でなくとも、極端に言えば廊下の雑巾がけや便所の掃除でも構わないから、彼女は衰燈舎の末席に生れて初めての社会人としての籍を置きたいと思い詰めるようになり、その不可解な情熱は丹念な妄想の反復で刻々と温められ、何時しか御し難いほどの膨張を示すようになった。給与の多寡も当座は然して重要な基準とはならない。兎に角、一度見学に行かせてもらおうと思い立ち、椿は辰彦から貰った連絡先に宛てて、巧みな謝絶は覚悟の上で依頼文を送った。
 普通に考えれば、ここまで衰燈舎という見憶えのない企業に執心するのは不自然な精神の作用であり、その直向きな思い入れは殆ど純情な恋心に似通っていた。たった一度、短い時間を分かち合って随分と索漠とした話題に打ち興じただけの段階で、既婚者である辰彦に特別な感情を寄せることなど有り得ない。椿の理智は茫洋たる感情の海原に無数の楔を打ち込み、夥しい数の消波ブロックを波打ち際に堆く積み上げて、不可解な心臓の騒めきを光の射さない海底の岩蔭へ押し込んでいた。
 起き抜けに気忙しく送ったメールへの返信は、夕刻になって漸く椿の手許に届けられた。差出人の氏名を確かめただけで、彼女の胸乳を柔らかな電撃が滑らかに貫いた。鄭重な文面は親切な気遣いを随所に行き渡らせて、貧相なビルに間借りした貧相な社屋で気恥ずかしいですが、貴女に幻滅を受け容れる覚悟があるのならば、水先案内人の大役を仰せ付かりましょうと、諧謔に富んだ筆致で椿の唇を微かに顫えさせた。幻滅という美しい単語を、椿は幾度も舌先に転がして、その頽廃的な響きに恍惚の片鱗を味わった。一向に構わないわ、と彼女は一人きりの静寂に覆われた部屋で呟いた。インターンという制度はあるのですかと訊ねると、無給の徒弟見習いで宜しければ、夏休みにでもいらっしゃって下さい、ただ人事権は私の掌には握られていません、悪しからず、という血圧の低い文章が、打ち返されたピンポン球のように素早く彼女の携帯の画面を光らせた。悪くない、と椿は思った。何が悪くないのか、その感想の精密な要約を試みる手間は無遠慮に省いて、空白の多い小振りな手帳を捲り返しもせずに、見学に就いて御都合の宜しい日時を報せて下さいと、躍るような指遣いで滑らかに画面を擦った。