サラダ坊主日記

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Sadistic Humor 安部公房「R62号の発明・鉛の卵」

 安部公房の短篇集『R62号の発明・鉛の卵』(新潮文庫)を読了したので感想文を認める。
 この短篇集には『壁』や『水中都市・デンドロカカリヤ』と同様に、安部公房の文業に特徴的な主題や要素が多彩な変奏を伴って象嵌されている。人間を動植物や機械と同列に扱い、両者の間にシームレスな変形を発現させる想像力の様態は、安部公房という作家の印象的な商標のようなものである。それを唯物論的な発想だと言ってしまえば随分と話は簡単に聞こえるが、それほどすっきり割り切れる問題だとは思えない。
 安部公房の文体にはサディスティックなユーモアが含有されている。人間の肉体を玩具のように変形したり破壊したりするときの、彼の淡白で簡素な表現は、その行間に陰惨な笑い声を反響させている。人間の「主体性」や「自己同一性」或いは「尊厳」といったものを単なる物体に還元してしまう視線の構造は、サディズムの典型的な症例であると言えるのではないだろうか。同時にそれは、情緒的なヒューマニズムに対する明確な挑戦状でもある。「人間」という種族に特権的な意義を認める一般的な態度への不満の表明は、彼の文学に通底する基礎的な潮流である。
 こうした文脈に関連して、もう一つ指摘されるべきは「幽霊」というファクターである。「変形の記録」と「死んだ娘が歌った……」の二篇は、紛れもない「幽霊」の視点から物語の情景を構成している。これは安部公房のオカルティズムを示唆する要素であるというより、肉体や物質に対する根底的な蔑視を意味するものであるように思われる。言い換えれば、肉体に対する根本的な蔑視が、人体を動植物や機械と同格に扱う思考の働きを賦活しているように思われるのだ。肉体の破滅は「幽霊」の側に凝縮された人格の枢要を聊かも毀損しない。つまり「肉体」は人間の存在にとって非本質的な、偶有的な要素として定義されているのである。彼は動植物の愛護を訴える別様のリリシズムに親しんでいるのではない。人間の「肉体」は、動植物や機械と同様に無意味な物質に過ぎないと貶下しているのである。その意味で、安部公房という作家の才能は極度に強靭な「ロゴス」(logos)に裏打ちされていると言える。そこからサディスティックで酷薄な諧謔が析出される。例えば「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」と題された奇妙な短篇などは、その好個の事例である。
 「鉛の卵」には、植物の葉緑素を自らの人体に取り込む改造を施した緑色の人間たちが登場する。その発想自体が如何にも安部公房的な特徴に支えられているが、問題はそれだけではない。この作品の末尾で描かれる「植物人間」と「どれい族」との社会的ハイアラーキーの滑稽な転回は、安部公房の作品群において繰り返し問われている「正常/異常」の「境界線」という主題に結び付いているように思われる。「古代人」に対する尋問の場が「法廷」に擬せられている点にも注意を払うべきだろう。『壁』に収められた「S・カルマ氏の犯罪」に登場する、法学者・哲学者・数学者で構成された奇怪な法廷のイメージも併せて想起されたい。安部公房の描く登場人物たちは一様に論理的な会話を好むが、それらの論理は滅多に共通の地平を構成することがなく、寧ろ両者の根源的な断層を明示するばかりである。相互に異質な論理の衝突が、如何なる総合的な結論にも到達せず、無限の齟齬を増幅させていくというパターンは、一般的な「正義」の概念を崩落させ、瓦解させる効果を担っている。植物人間の世界から脱出した「古代人」の学者は、同類に迎えられて安堵するが、果たして植物人間の「どれい族」に対する差別的偏見を、愚劣な謬見として一蹴することは本当に可能だろうか? こうした性質の疑問は、あらゆる事柄に就いて適用することが出来る。人間を動植物や機械と同列に論じる作者の眼差しは、論理の奇怪な変転や増殖に対する親和性と結び付いているように思われる。言い換えれば、サディズムの残虐さというものは、論理的な正しさに附随する暴力性と不可分なのである。
 「金閣寺」において絶対的な「美」を希求するロマンティシズムと訣別した三島由紀夫は、無意味な「肉体」の特権化に赴いたが、結局はその領域に踏み止まれず、絶対者への融合を図って自らの「肉体」を破壊する暴挙に出た。安部公房における「肉体」の自在な蹂躙は、そのような神秘主義的な発想とは異質である。三島にとって「肉体」は専ら審美的な対象であるが、安部公房にとっての「肉体」は、機械仕掛けの「玩具」に過ぎないのである。

R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫)

R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫)