サラダ坊主日記

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Fateful Damage 安部公房「けものたちは故郷をめざす」

 安部公房の『けものたちは故郷をめざす』(新潮文庫)を読了したので、感想文を認める(註:当ページ下段に貼付したAmazonのリンク先は、今年刊行されたばかりの岩波文庫版)。
 安部公房の初期の短篇小説に顕著に示されている非現実的で寓話的な作風は、この「けものたちは故郷をめざす」においては鳴りを潜めている。どちらかと言えば、正統派のリアリズムが全篇を貫いていると言えるだろう。扱われている題材がそもそも、我々の属する日常的な現実から隔たっている為に、平凡で卑俗な現実を腕尽くで変貌させるアンリアルな手法を導入してしまえば、愈々訳の分からない話になってしまうからかも知れない。
 この作品の背後に、安部公房の生まれ育った満州国の風土と歴史に関する記憶が、不透明な原形質のように息衝いていることは恐らく間違いない。無論、自伝的な実録であるという意味ではないが、例えば作者自身の敗戦後の「引き揚げ」の記憶、或いは奉天市内を転々としながらサイダーを売って生活の糧を稼いだというような個人史的記憶が、作品の根底に横たわっていることは明瞭であるように思われる。尤も、何らかの具体的で経験的な事実から、独自の虚構を抽出し、展開するのは芸術家の常道であろうから、それ自体が安部公房の独創性を証する根拠であるとは言えないが、この作品に漲る迫真的なリアリズムの筆致は、彼の驚嘆すべき想像力の強度を明確に告示している。
 未だ見ぬ「故郷」としての「日本」を目指して繰り広げられる苛酷な逃避行の精密な描写は、この作品に壮麗な冒険小説の風格を与えているが、作者は抒情的なヒロイズムを一顧だにしていない。全篇に亘って読者の精神を領し続けるのは、執拗に繰り返される「飢渇」と「寒冷」と「疲弊」の描写であり、その濃密な連鎖と反復が呪術的な響きと化して、我々の意識を絶望的な閉塞の内部へ誘き寄せる。複雑な政治的陰謀が交錯する荒廃した世界で、主人公である久木久三は剣呑な大人たちの思惑に翻弄され、衝突する利害の狭間で散々に甚振られる。見え隠れする希望の片鱗の数倍の強度で、間歇的な絶望が噴き上がり、主体的な意志は阻害され、思い通りにならない不快な現実だけが連続する。とはいえ、敗戦後の満州に置き去りにされた不幸な日本人の境遇が等し並みに、こうした無限の絶望の連鎖に覆われていたと言い切るのは聊か軽率である。言い換えれば、敗戦の実相を写実的に切り取ることによって「けものたちは故郷をめざす」という作品が生まれたのだと看做すのは、短見の謗りを免かれないのである。
 久木久三の逃避行は、日本人の操る密輸船への搭乗と、彼の名を騙っていた高石塔に粗野な制裁が下される場面に至って、遂に耀かしい解放の希望に包まれる。しかし、作者はそんな柔弱で甘美な大団円を容認しない。駄目押しのように振り下ろされた無慈悲な騙し討ちの鉄槌が、久三を再び「満州」という出口の見えぬ監獄に連れ戻す。このとき、久三が囚われる筆舌に尽くし難い絶望の深さは、安部公房の初期の短篇小説に通底する「不可避的な受動性」とでも称すべき要素を連想させる。『壁』に収められた「S・カルマ氏の犯罪」は固より、他にも「闖入者」や「R62号の発明」など、安部公房の作品に登場する人物の大半は、世にも奇妙な組織や人物に強いられて、抗い難い「宿命」の牢獄に幽閉されるという共通項を有している。世界の唐突な変貌、日常性の急激な破綻、それによって齎される無限の「被害」という構図は、満州における作者の戦争体験と無関係であるとは思えない。
 敗戦による世界の劇的な変貌という主題は、三島由紀夫の文学においても重要な意味を担ったが、安部公房における敗戦の実存的意義は、三島のそれとは大きく異なっているように思われる。三島における敗戦は、悲劇的なロマンティシズムの終焉と、無限に持続する忌まわしい日常性の復権を意味していた。けれども安部の場合、敗戦に附随する混乱は寧ろ従来の日常性の瓦解を意味している。日常性の次元から隔絶した巨大な強権によって振り回され、自己の同一性や主体性を毀損されていくという安部公房オブセッションと思しき典型的な筋書きは、敗戦による秩序の急激な転換と無縁ではない。「けものたちは故郷をめざす」において、久三がアレクサンドロフから渡される「特別旅行者証明書」や、素性の知れない高石塔の跳梁などは、自己の帰属の流動的な可変性という主題を明瞭に指し示している。「S・カルマ氏の犯罪」において描かれる、或る日不意に「名前」を失った男の陥る無限の迷宮は、正にこうした主題と密接に結び付いている。満州からの引き揚げという歴史的な経験から抽象された観念の枠組みが、安部公房の奇想に充ちた数々の寓話的な短篇を生み出す源流の役割を果たしているのである。三島が「超越性」との官能的な融合を夢見たとすれば、安部は「超越性」による不条理で酷薄な支配に苛まれたのだと言える。

 ……ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐるまわっているみたいだな……いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない……もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな……おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。日本はどんどん逃げていってしまうのだ……一瞬、火花のような夢をみた。ずっと幼いころの、巴哈林の夢だった。高い塀の向うで、母親が洗濯をしている。彼はそのそばにしゃがんで、タライのあぶくを、次々と指でつぶして遊んでいるのだった。つぶしても、つぶしても、無数の空と太陽が、金色に輝きながらくるくるまわっている。そしてその光景を、塀ごしに、もう一人の疲れはてた彼が、おずおずとのぞきこんでいるのだ。どうしてもその塀をこえることができないまま……こうしておれは一生、塀の外ばかりをうろついていなければならないのだろうか? ……塀の外では人間は孤独で、猿のように歯をむきだしていなければ生きられない……(『けものたちは故郷をめざす』新潮文庫 p.302)

 極端な実存主義が、あらゆる存在の本質的条件を排斥する思想だとすれば、安部公房の文学は謂わば「強制された実存主義」の生み出す監獄の悪夢を描いていると言えるだろう。明瞭な帰属や揺るぎない自己同一性を禁圧され、剥奪され、遂には匿名の個物と化した人間の生き延び得る場所は、苛烈な「荒野」の裡にしか存在しない。久三の冒険譚は、正に「強制された実存主義」の精細な描写と再現に基づいているのである。三島が日常性への埋没を「自己の消滅」と捉えたのとは異なる意味で、安部もまた「自己の消滅」という虚無的な疫病に抗う方途を模索したのである。

けものたちは故郷をめざす (岩波文庫)

けものたちは故郷をめざす (岩波文庫)

  • 作者:安部 公房
  • 発売日: 2020/03/15
  • メディア: 文庫