サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「作品」の歴史的条件)

*「事実は小説より奇なり」(Truth is stranger than fiction)と英国の詩人バイロンは言った。一般に小説家は様々な経験や伝聞や私見を混ぜ合わせて、虚構の物語を作り出す。その原料が現実の世界、我々の肉体を囲繞する世界から採取されるものであることは言うまでもない。作者が如何なる現実を作品の原料に選択するか、そして採取した原料に如何なる調理を施すか、こうした個別的判断の集積が、作者の個性や風儀を生み出す。
 作品が作者の内部から発露された純然たる独立的な個体であると看做すのは、芸術の自律性と優越に対する信仰に基づく考え方である。そのような仮定を踏まえて、作品の内在的な論理を解釈するのも一つの理解の手法には違いないが、実際問題として、作者と作品が限定された社会的環境から超越的な自由を手に入れることは不可能であろう。そもそも小説が他者と共有される社会的言語を通じて表出されるものである限り、小説の内在的論理が社会的環境から切断された普遍的なアイデンティティを保ち得る筈はなく、作者と作品が常に社会的境遇や歴史的条件との流動的な関係の場に置かれていることは明白な事実である。それゆえに作者と作品に対する評価は、時代の変遷や環境の変化に伴って揺れ動くのである。或る作品が重要な古典的価値を認められるのは、その古典的価値が作品の内部に普遍的な仕方で、謂わばプラトンの論じる「イデア」のような形態で内在しているからではない。その作品と、その作品を評価する社会的な現実との関係性が、綜合的な評価を定めるのである。
 つまり「永遠の古典」という考え方は成り立たないのであり、その都度「永遠の古典と看做された」という歴史的事実が形成されるというだけに過ぎない。時代の変化によって忘れ去られていた作家が再評価され、劇的な復権を遂げ得るのは、その作品に内在する普遍的な生命力の耀きといった抽象的理由に由来する現象ではなく、その作品と社会的現実との関係性の変動の帰結である。
 言い換えれば、小説作品を読解するに当たって、その作品と社会的事実との関係性を把握することは、読解の精度を高める有効な方法であると考えることが出来る。それは必ずしも個別的な作品を社会的現実の単純な隠喩に還元するという意味ではない。独創性の帰結と信じられている要素が往々にして歴史的な構造の帰結であることを踏まえて、読書に励むべきだと私は思うのである。
 例えば安部公房の長篇小説『けものたちは故郷をめざす』(新潮文庫岩波文庫)は、満州で生まれ育った作者の個人史的な経験を原料として用いている。無論、あの作品の固有性は、歴史的な事実の集積に必ずしも還元されないが、作中に示された固有の考えや感受性が、満州の歴史的条件と無関係に形成されたものであると看做すのは謬見であると思う。無論、作品の歴史的条件など興味はない、作品そのものの内部に滞在している個々の瞬間の経験だけが決定的に重要なのだという考え方を批難する積りはない。それが一つの純粋な快楽の方式であることも事実だろう。だが、少なくとも私個人に関して言えば、そういうストイックな方針だけでは物足りないのである。
 作品は、作者と社会的現実との関係性の帰結である。その関係性に与えられた表現が作品と呼ばれる。そして作者の創造に対する衝迫や情熱が、四囲の現実に触発されることによって生じることは明瞭な事実である。例えば三島由紀夫の傑作『金閣寺』(新潮文庫)の世界を、作者の個人史的経験から完全に切り離して捉えることは無意味である。昭和元年に生まれ、二十歳で終戦を迎え、世界の劇的な変貌に直面した三島の個人史的経験が、あの作品の基底に脈々たる流れを築いていることは明瞭である。空襲による滅亡の予感や、敗戦を契機として復活した無限の日常性に対する呪詛など、こうした要素が三島の生きた時代の歴史的条件と密接に結び付いていることは確実である。作品が歴史的産物であること、これは疑いようのない堅固な真理だ。三島がラディゲの作品に熱狂したのは、例えば『肉体の悪魔』(光文社古典新訳文庫)が、戦争とロマンティシズムの奇妙な融合を描いているからではないか。そうだとしたら、そこにはやはり歴史的条件が関与しているのである。戦争の終わりと禁じられた恋愛の終わりが同期する世界、つまり愛することが滅亡することと濃密な相関性を有しているような世界、こうした三島的なロマンティシズムの世界像が、三島自身の個人史的経験に由来するものであるならば、作品が歴史的条件の帰結であり産物であることに、我々は同意せざるを得ないのではないか。

けものたちは故郷をめざす (岩波文庫)

けものたちは故郷をめざす (岩波文庫)

  • 作者:安部 公房
  • 発売日: 2020/03/15
  • メディア: 文庫
 
金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 
肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)