サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

観念と抒情の茫漠たる萌芽 三島由紀夫「花ざかりの森」

 三島由紀夫の畢生の大作である「豊饒の海」全巻を読み終えたので、今は同じ作者の短篇集を渉猟することに時日を費やしている。目下、繙読しているのは『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)に収められた小品たちである。

 作者が十六歳の若さで書いた「花ざかりの森」は、彼の早熟な才能、その抒情的で華麗な文学的感性の萌芽を瑞々しく浮き彫りにしている。だが、この作品を一篇の巧緻な「小説」と呼称することに私は聊か躊躇の念を覚えずにいられない。後年の三島の壮大な作品の群れを想起すると、この若書きの短篇は如何にも未熟で、緊密な構造と明晰な文体を欠いているように感じられる。無論、十六歳の少年の綴った文学作品の出来栄えが未熟であることは少しも罪悪ではない。問題は、この作品を取り上げて「早熟の天才」という栄光に満ちた称号を過剰に輝かせ、巷間に轟かせようと試みる囂しい文学的野次馬たちの振舞いである。

 「花ざかりの森」には、例えば「仮面の告白」において達成されたような、緊密で充実した、僅かな弛緩も許さない明晰な文章の気配は少しも含まれていない。曖昧な観念、曖昧な情緒、曖昧な幻想が、古びた美文的な言葉の旋律によって緩やかに結び合わされているような作品である。その感傷は頗る主観的で、堅固な経験的現実の裏付けを伴わず、現実と夢想との境界線も曖昧に暈されている。

 主観と客観との境界線を茫洋と霞ませること、外界と内面との間に穿たれる悲劇的で痛切な断絶を済崩しに抹殺すること、それは少年期の未熟な抒情だけが実現し得る麻疹のような実存的感覚である。人間の社会的成長は、そうした曖昧な融和を突き崩すことによって初めて齎される。その意味では、この「花ざかりの森」という作品は、或る偉大な作家の文業の素朴な原型、或いは抒情的な習作の水準を超越するものではない。三島由紀夫という文学的な名声の助けを借りずに、純然たる讃辞をこの作品の為に捧げることは困難である。作者は未だ、芸術的なものが帯びている或る幻想的な光輝に酩酊している段階であり、現実との苛烈な衝突を通じて、自己の内在的な論理を厳しく鍛錬し、究めていくという社会的な過程に足を踏み入れていない。発達した感受性と夥しく蓄積された豊富な語彙だけでは、「小説」という一つの緊密な現実、眼前の現実から抽出され蒸留される「他者」としての異様で外在的な現実を完成させることは出来ない。彼は言葉を綺麗な花弁のように玩弄し、それを巧みに貼り合わせて、審美的で個人的な図像を描いてみせた。そこに見出されるのは「萌芽」のみであり、作者は未だ己の人生に対して課せられた不可避の本質的主題に目覚めていないように思われる。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)