サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

祝祭的空間としての「百貨店」 / 日常的空間としての「コンビニ」

 十九世紀のフランスに発祥したと言われる「百貨店」(department store)という業態が斜陽の季節を迎えてから久しい。市場規模は既に対極的な業態である「コンビニ」(convenience store)に追い抜かれ、その凋落の趨勢が底を打つ気配さえ見えない。三越伊勢丹そごう・西武は近年相次いで不採算店舗の閉鎖に踏み切り、地方都市に点在する地場の老舗百貨店も廃業するところが目立つ。

 複数の分野の商材を広大なフロアに集めて一体的に販売するという百貨店のスタイルが、これほど構造的な不況に見舞われている背景には、様々な要因が想定されている。ジャンルを絞り込んだ、廉価で品揃えの豊かな各種専門店の大規模な発達(衣料品市場におけるその筆頭は「ユニクロ」であろう)、百貨店を凌駕する敷地面積を有するショッピングモールの抬頭(「イオン」や「プレミアムアウトレット」など)、そして年々勢いを増し続けている電子商取引(electronic commerce)の顕著な普及(「Amazon」や「楽天」など)が、百貨店の優位性を多方面から着実に浸蝕し、突き崩しつつある現状は否み難い。

 現在の勤め先で、百貨店の食品売り場に間借りする店舗への配属を幾度も経験してきた私でさえ、百貨店へ個人的な用事で足を運ぶことは滅多にない。洋服を買うならばアウトレットやショッピングモールに行く場合が殆どであるし、食事をするにしても百貨店のレストランフロアは異様に値段設定が強気で余り食指が動かない。高価な贈答品などを選ぶときは辛うじて足を運ぶが、母の日などの贈り物もネットで買う方が手軽で種類も豊富である。

 尤も、駅ビルやスーパーやコンビニなどに比べれば、百貨店の「イベント」における集客力は抜群である。クリスマス、歳末の大売り出し、正月の初売り、節分、バレンタイン、雛祭り、ゴールデンウィークや盆休み、ハロウィンなどの特別で非日常的なタイミングでは、百貨店の高級感は寧ろ狡猾な誘惑の源泉となる。「上質なものを買いたい」という欲望が高まり、厳格な経済的統制が緩んだとき、百貨店の撒き散らしてきた聊か幻想的な「別格」の印象は、人々の嗜好に見事に適合するのである。端的に言えば百貨店とは「祝祭」の空間であり、日常性の節目において最大限の輝きを放つ特異な空間である。

 顧みれば、百貨店の凋落とコンビニの隆盛は、こうした「祝祭」の感覚の減退と、日常性の有無を言わさぬ強力な浸透の不可避的な所産であったのだと言えるだろう。その淵源が「バブル景気の崩壊」にあったのかどうか、確実な判断は私の手に余る行為だが、少なくともそのような牽強付会を成り立たせることは決して不可能であるとは思われない。空前の好景気が呆気なく破綻し、所謂「失われた20年」の深刻な不況が日本社会を沈滞と閉塞へ追い遣り、果てしなく持続する右肩上がりの経済成長という大人たちの神話は潰滅した。我々は夢見がちな少年であることを断念し、国家そのものの迅速な「高齢化」の潮流に呑まれて、豪奢な未来よりも質素な未来を愛するように、眼前の社会的な現実によって馴致されつつある。我々はもう素朴な感情で「祝祭」を愛することが出来ない。あらゆる出来事が、高度な技術革新によって齎される異様な「加速度」に煽られて、我々は手間の掛かる儀式や手順を踏むことを忌み嫌うようになってしまった。「利便性」の浸透、これが我々の社会の祝祭的な要素を駆逐する最大の要因である。我々は特別な歓喜、演劇的な歓喜、祝祭的な歓喜を求めて裏切られることに憔悴し、自衛の手段として、単調な日常性の愛撫という方法を学んだ。無論、こうした波動には必ず揺り戻しがあり、日常に対する堪え難い倦怠(これこそ「三島由紀夫的主題」であると言えるだろう)が、時にはハロウィンにおける渋谷の愚昧な暴動(極めて劣化した祝祭の形態として)のような、奇矯な反動を喚起することは今後も起こり得る。だが、それが直ちに百貨店の復活を招くことは考え難い。ECという最強の宿敵が、既に我々の社会を包囲しつつあるからである。百貨店の祝祭的な性質の象徴とも言える各種の「催事」販売も、あらゆるジャンルの商材を横断的に取り揃える「市場」的な性質も、ECの仕組みを用いれば、遥かに合理的な方法で実現することが可能になるだろう。販売員による種々の商品提案も、ビッグデータを活用した人工知能による「レコメンド」(recommend)の無限に高まり続ける精度に何れ屈服する日を迎えるだろう。百貨店という業態は、幾重にも連なる巨大な苦難の隔壁に取り巻かれているのだ。