サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

The Pessimistic Vision about the Culture and Population of Japan in Future

 新型コロナウイルスの感染爆発に歯止めが掛からない状況が続いている。二度目の緊急事態宣言発令に就いて、その限定的な対策に関する疑念は方々で論じられており、対象となる地域の範囲の拡大も漸進的で、リモートワークの社会的進捗も順調とは言えない。
 厚生労働省は昨年末に、2020年1月~10月の期間における妊娠届の件数が、前年比で5.1%減少したと発表した。雇用の喪失や賃金の減収に伴い、経済的な面で将来の生活を悲観する若い世代が増えたことが、妊娠出産の抑制に帰結しているのではないかという観測が、各紙で報じられている。何れの報道も、コロナの影響で日本の少子高齢化が加速するのではないかという懸念に触れている。
 少子高齢化という社会的現象は、先進諸国に共通する深刻な課題であり、各国で様々な議論が交わされ、対策が進められている。日本社会の現状は、その最も尖鋭な帰結を示しており、2016年の合計特殊出生率は1.44、65歳以上の老年人口が総人口に占める割合は27.3%に達している。
 2019年の人口動態統計(年間推計)によれば、日本の出生数は1899年以降最低の86万4千人(ちなみに私が生まれた1985年の日本の出生数は約143万人である)を記録した。この数年間で出生数は坂を転げ落ちるように急減している。そこにコロナの影響が加わり、2020年の妊娠届の件数が減少した。この事実は、来年度の出生数の更なる急減を示唆する根拠にもなり得る。厚労省の試算によれば、2065年の日本の総人口は、約8800万人まで落ち込むだろうと推計されている(2020年12月1日時点の日本の総人口は1億2571万人)。
 唯でさえ急速な亢進を示している少子高齢化が、新型コロナウイルスに伴う「社会的距離」(social distance)の拡大によって一層激化するという懸念は、現実的なものである。日本では未婚者による出産が極めて少なく、出産と婚姻との間には密接な相関が存在する。しかしながら、日本における婚姻の件数及び比率は凋落の一途を辿っており、未婚率の上昇は出生数の減少に直結している。社会的距離の確保に附随する他者との接触機会の低減が、婚姻に結び付く関係性の構築を阻害する要因となり得ることは、誰の眼にも明らかな事実である。
 人口の減少は、我々の社会、政治、経済、文化、生活、それら総ての局面に重大な影響を及ぼす。既に生産年齢人口の慢性的減少に伴い、定年や年金受給開始年齢の引き上げが進められ、高齢者であっても引退せず労働に従事することが社会の常識に登録されつつある。女性の社会進出は言うまでもなく、古き良き昭和期の「専業主婦」という概念は既に朽ち果てた遺物と化している。外国人労働者の雇用の拡大も、生産年齢人口の減少が齎した不可避的な帰結である。頗る単純化して言えば、日本は滅亡への緩慢な道程を辿っている。日本人が消滅すれば、日本の文化や歴史もまた消滅し、古代の文明と同じく、学術的研究の対象としてのみ保存されることになる。日本語を理解する人間が消滅すれば、数千年に亘って日本語で綴られ継承されてきた文献や典籍は悉く無意味な死骸と化すだろう。人口減少は、日本という社会の滅亡、文化の滅亡、そして言語の滅亡を意味する。そのことに私は、漠然たる不安を覚える。
 今年度の個人的な目標として私が英語の学習を掲げたことの背景にも、こうした危機感が一つの理由として横たわっている。日本は翻訳大国であり、海外の様々な書物を日本語で読めるという恵まれた文化的環境が整備されている。しかし、それは日本語が、1億2千万人のnative speakerを抱えているからこそ成り立つ話であり、日本語による出版市場が慢性的な不況に苛まれながらも滅びずに済んでいるのは、読書離れの影響を考慮しなければ、1億2千万人の潜在的顧客を有しているからである。そして日本という国家が、強力な政治的=経済的=文化的なpresenceを発揮している限りは、日本語を学ぶ外国人を一定数確保することも出来るだろうが、現状を徴する限り、日本の国際的影響力は凋落の範疇に属していると言わざるを得ない。
 日本語は、英語やフランス語のように国際的なLingua francaとして流通している訳ではない。従って日本の人口が減少すれば、その話者の総数は露骨に急減する筈である。そうやって凋落していく社会において、日本語の築き上げた文化的伝統を保護しようと思えば、外国語を通じて国際的な文脈にアクセスする能力は必須である。日本語しか理解出来ない人間は、日本という社会と共に滅びざるを得ない。また、日本語とその文化を世界に向かって発信し、共有を進めることも出来ない。日本語と、日本語によって涵養され成長した文化の価値や特質を相対化し、客観的分析の対象に据えることも出来ない。それは日本語という監獄に幽閉されていることと同義である。
 恐らく、あらゆる教育の本義は、学習する者を、その居住する環境から生じる多面的な制約から解放することである。教育を通じて、今まで知らなかったことを知り、出来なかったことを出来るようになるという一連の営為は、当事者に課せられた諸々の制約を解除し、その社会的な可動域を拡大し、生きることに関わる自由な選択や裁量の範囲を拡張することに等しい。知識を学び、技術を体得することは、生きる力の強化と深化を意味する。語学がその一助になれば良いと願いながら、私は日々英文のペーパーバックを繙いて、不可解な文字の羅列に挑戦する。その地道な営みは、私の精神的な世界の限界を押し広げ、私の度し難い無智を徐々に癒すだろう。無論、私は日本語の豊饒な富を愛する者である。ただ、日本語以外にも豊饒な「言葉」の資産があるのならば、それにも手を出してみたいと貪婪に希っているのである。