サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(The Desire to Purify Everything)

*人間には、何かを純化したいという欲望が時折兆す。何か不安定な要素、不当な要素を排除することによって劇的な改善を望みたいという、謂わば「リセット」することへの欲望が人間の精神の根底には巣食っている。仕事でも家庭でも、対象は何でも構わない。夾雑物を排除して、衛生的な状態を恢復して、そうすれば万事好ましい方向へ改善していくという信念、殺菌消毒の理念、厳密な同一性の基準に基づいて裁判し、審理し、摘発するべきだという正義の理念、それは人間の内なるロマンティシズムと結び付いている。
 例えば人間は時々、無垢だった幼少期の記憶に特別な郷愁を寄せる。人間の社会に存在する諸々の暗部を知らず、規則や倫理との相剋に懊悩することもなく、素朴な愛情と信頼の中で暮らしていた日々の記憶に、奇蹟的な恩寵を見出し、世智で穢れた後の我身と引き比べて、幼少の日々が如何に輝かしく美しいものであったかと慨嘆するのである。如何に自分は純粋な存在であったか、長じてからの種々の出口の見えない煩悶に日夜苛まれることもなく、単純で明快な幸福の中で生きていたかと、甘美な情緒と共に懐かしむのである。
 純化による解決、これを私は警戒する。世の中はそれほど単純な仕組みで出来上がっていない。記憶は往々にして美化されるものであり、幸福な幼少期の回想は、それ自体では無力な幻想に過ぎない。問題や弊害は複雑な構造によって形成されており、その相互的な依存の関係は錯綜しており、単一の明快な異物によって総ての症状が惹起されていると考え得る事例は極めて稀である。或る一つの事柄の善悪は、その事柄が他の事柄と如何様に関連しているかによって、相対的に、流動的に決定される。今日の正義は明日の犯罪であり、逆もまた然りである。
 例えば様々な種類の差別、これは明らかに純化への欲望、同一性への信仰の為せる業である。先般、東京オリンピックパラリンピック組織委員会の会長であった森喜朗氏が、ジェンダー差別に該当する発言によって自らを辞任に追い込んだことは記憶に新しい。円滑な意思決定を阻害する要因を「女性」というファクターの裡に求め、恰かも「女性」の理事を排除すれば、自ずと組織運営は合理化され改善されるかのような論旨を披歴した彼の振舞いは、煎じ詰めれば「純化」に対する衝迫の具体的事例に他ならない。或いは歴史を繙けば、あらゆる社会的差別の事例が、こうした「純化」への情熱的衝動と要求によって駆り立てられていることは直ちに窺い知れる。例えば先般、国軍のクーデターによってアウンサン・スー・チー氏が身柄を拘束され、民主化の機運に蒙昧な冷水が浴びせられたばかりのミャンマーでは、ロヒンギャと呼ばれるイスラム系の少数民族(インド系の移民)に対する厳しい迫害が恒常化し、武力衝突や虐殺、難民化などの深刻な人権問題の慢性化が憂慮されている。思い起こせば米国においても、大統領就任当初のドナルド・トランプ氏が、南米からの不法移民の排斥を訴えてメキシコとの国境に隔壁を建設するという極めて排外的な国策に踏み切ったことがあった。日本の歴史においても、関東大震災に際して生じた流言蜚語によって、多くの朝鮮人が虐殺されたと伝えられている。ナチス・ドイツにおける「ホロコースト」や旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」などの事例も含め、社会的不満の原因を移民などのマイノリティに見出そうとする悪しき風潮は枚挙に遑がない。こうした思考の形態は悉く「異物を排除すれば我々の置かれている状況は改善する」という信仰に支えられている。これは「多様性の尊重が国力を賦活し、世界をより良いものに変えていく」というダイバーシティの発想の対極に位置する古びた信念の様式である。

*こうした「純化」への欲望は実に様々な形態を取り得る。保守的な思考を愛する人々は「伝統への回帰」を「純化」のヴァリエーションとして声高に主張する。日本古来の文化や風習を重視し、現代的な変化を唾棄する人々は、知らず知らずのうちに「多様性」の観念の最も尖鋭で陰湿な宿敵と化している。例えば「日本語」の純粋性を愛する人々は、片仮名で綴られた外来語の氾濫に険しい顔つきで警鐘を鳴らす。何でもかんでも横文字に置き換えるのは知的な怠惰であり、日本語で表現し得るものを気取った新奇な横文字で言い換えるのは伝統的な文化に対する破壊的行為であり、堕落であるというのが、その一般的な論旨である。「感染爆発」を「オーバーシュート」と言い、「都市封鎖」を「ロックダウン」と呼ぶのは怪しからん、不親切である、何故もっと明快な日本語で表現しないのか、というのは、彼らの抗議の一例である。だが、彼らも日常生活において、わざわざ「トイレ」を「厠」と呼んだり「スマートフォン」を「高機能携帯電話」などと呼んだり「ブラジャー」を「乳当て」と呼んだりしている訳ではないだろう。
 そもそも「純粋な母国語」という観念は、実在の疑わしい神秘的幻像である。日本語が現在の高度な発達を遂げたのは、例えば古代中国から「漢字」という純然たる舶来の体系を大々的に輸入し、移植した成果である。海外の文物を取り入れる際に、併せて海外の言葉も摂取するのは当然のことで、それを日本風にアレンジすることで、我々の母国語は持続的な成長を遂げてきた。純粋なる母国語の庇護に固執して、排外的な宣言を革めないのであれば、片仮名に置き換えられた英語に限らず、一切の漢文脈も摘出し除去してしまえばいい。そうすれば、日本語による思考の水準や品質は致命的に下落し、我々の文化は頗る貧弱な、栄養の足りない脆弱な生き物に変貌を遂げるだろう。そもそも、日本の伝統的文化と信じられている仮名文字が、漢字の変形を通じて構築されたものであることは常識であり、舶来の文化を徹底的に排除すべきなのだとしたら、我々日本人は馴染み深い仮名文字の廃棄すら真剣に検討せねばならないのである。それが聊かも合理的な方策ではないことは自明である。従って「日本語」における「純化」への欲望は極めて不合理な情熱であると結論することが出来る。寧ろ、あらゆる外国語を片仮名に置き換えて日本語の体系の一部として併呑する強力な伝統は、日本語という文化的制度の旺盛な食欲、その強靭な生命力を立証するものに他ならない。英語もまた、ラテン語やフランス語の語彙を貪婪に咀嚼し摂取することによって成長を遂げてきた。あらゆる言語の健康は、純化ではなく交雑によって保たれる。言語に限らず、純化によって健康の恢復を図ろうとする性急な衝迫は、システムの弱体化を示唆する簡明な症候である。多様性の理念は、強靭なシステムの存在を要求する。異物を排除するのではなく包摂することの重要性を、多様性という理念は自らの存立の基礎に据えている。つまり、純粋なものに憧れる心理は、自らの心身の衰弱の確たる証明なのである。弱った胃袋を守る為には食事制限が不可欠であるが、そもそも偏食を避ける日常の心掛を重んじるべきである。私のような観念的偏食家は、三十五になっても自らの夥しい食わず嫌いを糺さずに厚顔にも恬然としている。こういう人間は正に「純化」への欲望の権化である。好きなものしか食べたくないという心理的偏向が、多様性に堪え得る強靭な心身の醸成を毀損しているのである。何でも嫌がらずに食べなさいという家庭の凡庸な教訓は蓋し、不変の真理を衝いている。