サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ストイシズムの閉鎖的な快楽

 人間は絶えず、あらゆる種類の欲望に取り巻かれて、危うく不安定に揺らぎながら生きている。欲望は人間の主体的な理性に先立って、人間の深層から殆ど如何なる脈絡も持たずに迫り上がってくる、自律的な衝動である。その欲望が発する要求の総てに唯々諾々と従うことは、少なくとも社会的な動物としての人間には許されない。殆ど無作為に起動し、暴れ回る欲望の命令に抵抗することは、人間的な理性の尊厳に関わる崇高な使命であるからだ。

 黙っていれば、幾らでも無限に湧出して私たちの心身を果てしなく小突き回し続ける、この野蛮で原始的で幻想的な衝迫の発する命令に抵抗することは、人間が社会化された生物としての自画像を形成する上では欠かすことの出来ない基礎的な努力である。だが、如何なる欲望にも無条件に抑圧的な方針を貫徹しようとすれば、そもそも自分が生きていることの意義それ自体に関する疑念を極限まで膨張させてしまう結果に繋がるだろう。

 欲望を排除すること、或いは適切な仕方で制御すること、それによって己の人生を或る安楽な幸福の状態に維持し続けること、平たく言えば「ストイシズム」(stoicism)とは、そのような精神的方針を指す観念であると、私は理解している。放置すれば無限の変奏を繰り返して果てしなく生起し続ける個々の刹那的な欲望に振り回されることを峻拒し、常に一種の精神的な平衡の状態に留まろうとする禁欲的な主義、言い換えれば絶対的な「安心立命」の境地に到達しようとする、この半ば宗教的な潔癖さは、欲望の否定が幸福に通じるという理路を正しい教えとして採用している。つまり、欲望の充足は真の幸福と安寧を齎さない、欲望は満たされるほどに亢進し、無際限に膨張し高揚していく不死の悪魔であるという認識が、このようなストイシズムを生み出す精神的な土壌となるのである。

 無論、こうした理窟には一定の正当な説得力が備わっている。所謂「喜怒哀楽」の一切合財を抛棄することで、精神の恒久的な平穏を獲得するという論理は、仏教的な求道の方針と少なからず符合している。禁欲を通じて安心立命に至る、或いは「涅槃」に至るという理窟は、その実現の困難さを差し引いてしまえば、私たちの日常における心理的経験と部分的には重なり合っているのである。

 如何なる事件にも経験にも境遇にも揺さ振られることのない、不撓不屈の精神力が、如何なる運命に見舞われるかも分からない私たちの不安定な人生において、稀少で重要な価値を担っていることは明瞭な事実である。「少欲知足」という仏教の言葉は「何も求めないことが魂の幸福を齎す」という、俗世間とは対蹠的な理窟を駆使することで、救済の方向性を明快に打ち出している。欲望を棄却すること、何も求めず望まないこと、そのように自己の精神的秩序を改造することで「永遠の幸福」に到達しようとする態度が、所謂「ストイシズム」の本懐なのである。

 或る明瞭な価値観に基づいて、自己を厳しく律すること、つまり内なる欲望に対する専制的な姿勢だけがストイシズムと呼ばれるのではない。その純化された極限の形態においては、あらゆる欲望は死滅すべきなのである。そこまで到達すれば、死ぬことさえ少しも恐ろしくないし、寧ろ死ぬことは欲望の物理的な死滅を齎すのだから、最高の平安を意味することになる。

 だが、このようなストイシズムの極限的な帰結が、徹頭徹尾、自己の孤独な幸福だけに固執した態度であることは明白である。そこには恵まれない他者への憐憫すら存在していない。つまり大乗仏教的な「慈悲」の論理が生成される契機が存在していない。ストイシズムは不可避的に、自己という監獄から脱出する契機も構造も持たず、従って他者の救済という運動に発展する理由さえも保有し得ないのである。

 過剰に堅牢なストイシズムは、自己を限りなく「無=死」の状態に近付けることで、絶対的な安寧を獲得しようと企てる。従ってストイシズムは常に「タナトス」(thanatos)との間に緊密な関連性を有していると言い得る。自己をゼロに限りなく接近させる為の自己破壊的な克己心、そこに「自分を抹殺してしまいたい」という剣呑な欲望が関与していることは概ね確かな事実であると思う。

 無論、ストイシズムの危険性を説く余り、その良質な側面に対して完全に眼を塞いでしまうのは公正な態度ではない。無際限に膨張し暴走する欲望の野蛮な命令に従い続けるのも、過剰なストイシズムと対蹠的な意味で、自己破壊的な振舞いであり、他者に対する配慮を欠いた生き方である。自己中心的なエピキュリアンが、過剰な克己心に縛られた人間よりも上等であるという理窟は成り立たない。過度に享楽的であることも、過度に克己的であることも、共にエゴイズムの顕現に他ならない。道徳的な克己心が只管に自己の安寧だけを追求するのならば、その道徳性は他者への配慮ではなく、自己への配慮の手段に過ぎず、従ってその人物が品行方正であり清廉潔白であったとしても、それは他者や世界に肯定的な影響を及ぼす要因とはならないのである。道徳的であることは、無条件に価値を有する実存の形式ではない。道徳的であることは時に、他者に対して強烈な暴力性を発揮し得るものなのだ。