サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「奴隷」の道徳)

*人間は誰しも他者からの評価を気に病む。毀誉褒貶に一喜一憂し、自己の存在や行動を、多数派の他者が築き上げた普遍的な規矩に合致させることに、奇妙な社会的幸福を感受する。こうした他律的な生き方は、余りにも深く我々の魂を蚕食しており、それ以外の生き方を想像することさえも困難な作業に仕立て上げている。

 他者からの評価に直面し、その趣旨や論点に就いて精確な理解を期することは倫理的な振舞いである。評価の良し悪しに関わらず、その評価の中身を綿密な省察の対象として取り上げる努力は、当人の成長の為には明らかに有益である。しかし、そうした倫理的態度は、自分自身に対する充分な客観的距離を保持している人間だけが選び得るものである。自分自身の主体的な見解を、それも単なる独善的な直感に基づくものではなく、日常的な考察の蓄積の上に築かれた主体的な意見を有さない人間は、必然的に他者からの評価の善悪や妥当性を裁定する能力を持ち得ない。

 私が懸念するのは、こうした「他者からの評価への依存」という心理的状況である。他者の意見を尊重し、共感し、時に反駁するという自然で合理的な行動の規範を妨げるのは、こうした「世評への依存」という病態であるからだ。私は決して「褒められて嬉しい」「貶されて悲しい」という素朴な情念自体を問責したい訳ではない。自己の主体的な意志とは無関係に生起する感情、つまり本質的に無責任なものである感情に対して、道義的責任を問うのは無益な行為である。問題は、そうした感情に対処する倫理的な基準を持ち得るか否かという点に尽きている。

 好ましい世評を得ることを、己の人生の規範として信奉することに、私は賛成しない。他者の評価に依存し、人生の幸福に関する生殺与奪の権利を自ら無数の群衆へ譲渡することの軽率な危険を懸念するからである。自らの実存的形式の決定権を他者に委任するということは、自らの人生を他者への供物として捧げることと同義であり、従ってそれは奴隷の道徳に該当する。

 不毛な誤解を招くことを懼れて慌てて附言するが、私は決して世評を軽視したり、黙殺したりすることが至善であると唱えている訳ではない。世評の全面的な排除と扼殺は、人間の堕落の紛れもなく重大な要因の一つである。だが、世評への全面的な従属と依存も同様に、堕落の根本的な要因であることに注意を促したいのである。重要なのは、世評と対等な立場で向き合い、議論の応酬に努めることであり、完全な黙殺も完全な隷属も共に、世評というものが有する教育的効果を減殺するという点においては共通している。

 世評とは要するに「自己の意見」の巨大な複合体であって、その本質的な価値は「私自身の意見」と等価である。従って世評に対峙する際には、傲慢な素振りも卑屈な態度も共に無用の長物である。我々が専心すべきは「自己の意見」を丁寧に養育し、有意義な発展へ導くことであり、世評はその育成に資する肥料のようなものである。時には、他者の意見に震撼されて、従前の意見が悉く灰燼に帰する場合もあるだろう。それさえ、地道な育成の途上で起きた意想外の事件であるならば、決して「奴隷の屈従」には該当しない。奴隷は絶えず世評の顔色を窺うが、それは飽く迄も自己の保身の為であり、断じて自己の成長の為ではない。従って、奴隷は世評の内実に就いて誠実な省察を加えようと試みる基本的な意志さえ欠いているのである。奴隷は世評の忠実な使徒であるかのような仮面を被っているが、肚の底では何も真剣に受け止めていない。そのような世評が下された理由を自分なりに考えて解釈してみようともしない。奴隷にとって重要なことは、世評が自分を優遇するか否かという一点に限られており、待遇が悪化しないのならば、世評の内実が明らかに不当なものであっても意に介さないのである。つまり、誤解の上に築かれた栄誉ならば恥知らずにも好んで貪るのである。不当で過分な栄光を峻拒し、真実の自分を公表しようとする殊勝な心意気は、決して奴隷の胸底には宿らない。また、不当な冷遇に対して反駁を試みる果敢な精神とも無縁である。不当な世評には屈せず、自身の見解を更に錬磨し、成長させることで報いようと努力する勇猛な情熱は、奴隷の持ち物ではない。

 つまり、奴隷の本質は「阿諛追従の精神」である。たとえ過分なものであっても、優遇さえ購えれば手段を選ばず、如何なる節操も放擲するという精神が、奴隷という実存的形式の本質を構成している。金が儲かればそれでいい、親や教師に褒められればそれでいい、安楽な生活が営めればそれでいい、他人の意見に唯々諾々と従っているだけの生活が一番気楽で望ましい、という奴隷の道徳は、私の最も軽蔑する生き方である。無論、私も古代ローマの賢者たるセネカに倣って「私が悪徳に非を鳴らすとき、その悪徳は何よりも私自身のそれなのである」(「幸福な生について」)という自戒の金言を掲揚することを忘れないように努める。