サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(A Burning Desire for Approval)

*四月から私の直属の部下となる問題児と会社のオフィスで二時間ばかり面談をした。話頭は多岐に亘り、その仔細を悉くここに明示することは出来ない。そもそも業務及び個人の事情に関連する話柄であるから、妄りに公開して許されるような種類の内容ではない。ただ書き記しておきたいのは、私がそのときに感受した、怠惰で聊か奇矯な性格の持ち主である彼の抱え込んでいる根深い承認欲求の熱量であった。
 彼は会社から有能な人材として評価されていない。それゆえに複数回に亘って降格の憂き目に遭っている。そのこと自体は、彼も自覚していない訳ではない。しかし、深刻な承認欲求、満たされずに燻っている承認欲求が、冷遇されている自分という卑近な現実を果敢に直視する意欲を失わせているのではないかと、私は判断した。会社からの低調な評価のみならず、数年前に破綻した不幸な結婚生活の影響も深甚であるらしい。
 恐らく彼も相応の情熱や矜持は持ち合わせているのだが、如何せん能力が足りず、自己を律する厳しさも欠いている。それゆえに改善しない自己の社会的評価は、恐らく彼の旺盛な承認欲求を著しく毀損しているだろうと思われる。彼も有能な人材として活躍し、周囲から評価され、信頼され、尊敬されたいと切実に願っている。にも拘らず、彼の勤務態度や業務の作法は無数の怠慢に彩られている。仕事の納期を守らず、上司の指示や方針を遵守せず、衛生観念に乏しい。仕事が芳しい成果に結び付かない理由を他者や外的条件の裡にばかり探し求めて難詰する。非常に饒舌で、他人の会話に嘴を突っ込まずにはいられない。頗る大雑把な言い方をすれば、彼は要するに愛情と信頼に餓えているように見える。それなのに怠惰な性格で堅実な努力を積み上げないから、実質的な愛情と信頼を享受することが出来ない。愛情や信頼は一朝一夕に得られるものではないし、鍍金は必ず剝落する定めである。愛情や信頼を得る為には、地道な努力を積み重ね、表層的な言葉ではなく質実な行動によって自己を表現する心掛が欠かせない。しかし彼は大言壮語を弄するばかりで、具体的な行動には無関心だから、口先だけの男として密かに軽侮される。行動を積み重ねないので具体的な成果にも結び付かず、会社の評価も伸び悩む。結果として冷遇されるという悪循環に陥っている。その現実を直視せずに、自己啓発的な動画の類に熱中して、狡猾な教祖様の説法を有難く拝聴し、それを身近な他人に勧めて回る。他人の意見を過剰に称揚し、それを如何にも普遍的な真実であるかのように吹聴して回るのは、概ね主体性のない空虚な人間の常套である。
 自己対話の欠如、内省の欠如、それが過剰な承認欲求や、過剰な依存を生み出す悪しき温床となる。自分自身の考えや意志を分析する習慣、我が身を顧みて長所を伸ばし短所を是正する習慣、真実とは何かを恒常的に思案する習慣、こうしたものが欠落していると、人間は主体性や自立性から限りなく隔たる。また、他人からの信頼や愛情を安価なものだと誤解するのも好ましくない傾向である。信頼の獲得は、一足飛びに為し遂げ得るものではない。巧言令色の賜物でもない。具体的な行動、具体的な発言を通じて、誰もが他人の価値を値踏みする。その厳しい吟味に堪えたものだけが安定した信頼の懐に安らうことが出来る。
 主体性のない人間は、他者の意向に良くも悪くも大きく左右される。敬愛の度が過ぎて盲信を捧げたり、過度の恐怖を懐いて委縮したり、何れにせよ他者との適切な距離を保持することが出来ない。要するに自立が足りないのである。だから孤独に堪えたり報われない努力に打ち込んだりする粘り強さが永遠に養われない。従って艱難辛苦を乗り越える強さも手に入らない。信念を語っても、その信念の妥当性を、具体的な行動を通じて検証する勇気が発揮出来ないので、信念はずっと画餅に終始する。思考の価値は、現実的な検証を通じて究明されねばならない。そうでなければ、信念とは要するに妄想の同義語である。
 承認欲求に身を焦がすのは大いに結構だが、思い込みで現実が書き換えられることはない。現実を変えるには具体的な行動が不可欠である。承認欲求を満たしたいのであれば、その具体的な方策を講じなければならない。そして、過度な理想、過度な期待に振り回されるくらいなら、それらは速やかに棄却してしまった方がいい。具体的な価値、具体的な行動、具体的な現実の渦中で、実質的な利得を確保せねばならない。そうでなければ、現実に対する夥しい不平不満の泥沼で溺死する悲運に見舞われるだろう。そして、誰もが努力次第であらゆる願望を叶えられる訳ではないという自明の現実を踏まえて、事に臨むべきである。現実的な目標の達成を積み重ねる以外に、壮大な希望を実現する方途は存在しない。現実を変革したいと願うのは人間の生得的な欲求であり、それが世界の革新を促す最も重要な原動力として機能してきたことは歴史的な事実である。但し、実現とは奇蹟の顕現を意味するものではない。現実の局所的な変形に過ぎない。それ以上を望むのは余りに法外な要求だ。何を望むにしても、具体的な行動の蓄積以外に手立てはない。奔放な夢想を語るのは個人の趣味に留めるべきで、意見だけで人は変わらないし、現実もまた姿を変えない。この文章は無論、自戒の為に綴られている。