サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 3

 引き続き、プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンの「理想的な国家」の形態や構造を巡る実験的な議論には、聊か疑義を呈したくなる側面が幾つも刻み込まれている。音楽や詩歌に関する堅苦しい道徳的抑圧、医療に関する優生学的な規範、私有財産の禁止を含む政治家たちへの苛烈な倫理的要求など、実現に際しては多くの弊害を惹起するであろうと思われる類の提案が散見するのである。プラトンの国家に関する見解には、中央集権的な「全体主義」の感触が滲んでいる。彼は「国家」の理想的形態を明瞭に描き出す為に、意図的に「現実的な国家」の実態を掻き集めて知的な「蒸留」の作業を施した。彼の「理想的な国家」に関する綿密な論証は、数多の「現実的な国家」に対する酷薄な審判の上に成り立っている。

 プラトンは恐らく「国民主権」という理念の崇高な価値を容認しない独裁的な性格の持ち主である。私はその倫理的な善悪に就いて明確な断罪を試みようとしている訳ではない。言葉の上で、プラトンの政治的思想における冷酷な特質を糾弾するのは極めて容易な実践である。重要なのは、そうした表層的な批判に溺れて、自らの思考を停滞させることではなく、彼の思想の深層に潜り込む為の執拗な考究を維持することである。

 「国家の理想的形態」に関する煩瑣な議論に限らず、その対話篇の全般を通じてプラトンが明示している思索の様式における特徴は「本質の抽出」であり、もっと端的に要約するならば「抽象化」という知性的作業である。彼の思考は常に諸々の具体的な個物を貫く核心的な要素を把握することに捧げられている。彼は単に「国家の理想的形態」に就いて自己の意見を開陳しているのではなく、そもそも「国家の本質」に就いて徹底的な探索を試みているのである。しかも、その並々ならぬ野心的な努力は、国家の現実に関する経験論的な観察を敵視している。何故なら、経験論的な現象の把握は寧ろ事物の「本性」に関する精確な知識の獲得を妨げ、知性の働きを混乱の坩堝へ陥れるものだからである。彼にとって哲学的な探究とは「本質の定義」であり、その対象となる存在に固有の条件を明確に断定することを目的としている。

 事物の「本質」に対する徹底的な考究の情熱は、事物の多様な形態をそのままの状態で保全するという「多様性」の理念と原理的に背馳する信念である。「本質」を捉えようとする知性的な努力は不可避的に、相互に異なる多様な存在の形態に共通する同一の要素を探し求め、その探究の目的に適わない「逸脱」の部分を捨象することを当然の要請として積極的に受け容れる。「本質」を追い求めるという精神は、絶えず事物の世界に「共通項」や「同一性」の手懸りを発見しようと驚異的な努力を積み重ねる。そして「理想的形態」は、そうやって見出された普遍的な「本質」への適合を根拠として承認されるのである。

 「本質」の実在性を認め、それを事物の本来的な姿として、つまり理想的形態として称揚し、そうした本質と恣意的で偶発的な仕方で結び付いている副次的な属性を捨象する思考の形態が、いわば「認識論的浄化」とでも称すべき作業を含んでいることは明瞭な事実である。プラトンは肉体的で感覚的な認識の機能に就いて、それが霊魂による「真実在」の把握を阻害する「穢れ」であるという視点を「パイドン」において提示している。この場合の「穢れ」とは明らかに、事物の本質と無関係でありながら、その事物に偶然接続されることとなった諸々の「合成的属性」のことを指している。

 事物の構造を「本質」と「偶有」とに二分して弁別する思考の形式は、プラトニズムを彩る明瞭な特徴の一つである。人間の存在を「霊魂」と「肉体」とに切り分ける二元論的な発想もまた、こうした「本質」と「偶有」という認識論的構図に依拠している。そして「肉体」を偶有的な属性として賤視し、人間の本質を「霊魂」の側に求める差別的な規範が、プラトンにおける倫理学的秩序の根幹を形作っているのである。

 こうした「本質主義」(essentialism)の傾向は、偶有的な要素に対する差別的冷遇を齎すと共に、現象的な世界に対する「普遍」と「超越」の性質を事物の中核に見出す。プラトンの「真理」に関する考え方が、こうした本質主義的傾向によって規定されていることは明瞭な事実である。そして本質主義的な思考の方法は必然的に「選別と排除」の論理を、その運動の中心的な枢軸に設定する。換言すれば、本質主義には「純化」と「浄化」への絶えざる反復的な衝迫が宿っているのである。

 更に本質主義においては、事物の進化や発展といった現象的変容に対する保守的な批判が常態化するのではないかと想定される。何故なら、本質主義における最も根底的な概念である事物の「本質」は、現象界における諸々の流動や、偶有的な要素の改廃とは無関係に、普遍的な同一性として存立し、あらゆる現象的変容を超越する堅固な実体を備えると考えられているからである。若しも事物の本質が普遍的なものであり、現実的文脈による一切の制約を免かれていると仮定するならば、諸々の偶有的要素と混淆した状態にある地上の事物は、そうした偶有的な「汚染」から脱却すべきであり、そうした「浄化」が完璧に実行されたならば、そのとき事物の本質は全面的な「開顕」の状態に移行すると看做される。それが本質主義における事物の理想的状態である。本質主義者の考える「進化」の過程は、こうした事物の「純化=浄化」の進捗によって形成されており、或る事物が新たな偶有的要素を獲得することで進化を遂げるという現象的思考は、寧ろ「純化=浄化」の過程を妨げる変化であるとして排撃されることになるだろう。

 このような本質主義的観点に立脚して推し進められるプラトンの「国家」に関する議論が、成員に対する厳格な統制や倫理的制約を伴うことは不可避的な帰結である。彼は現実に存在する国家の実態から諸々の妥協的な折衷の方策を思案するという段取りを選択しない。彼が思考の対象に据えるのは飽く迄も「国家の本質」であり、国家の本来的=理想的な存在の様態に就いて明瞭な見取図を確立することが最も重要な本務であって、国家の実態を具体的に改革することは副次的な問題として遇されている。彼は偶有的要素を組み替えることで最善の状況を手繰り寄せようと試みる泥臭い実際的努力には、稀薄な関心しか寄せていないのである。彼は国家の本質に附随し、結合し、混入している諸々の偶有的要素を選別し排除することによって、予め潜在する国家の理想的形態を発掘しようと企てる。こうした試みは、諸々の現象的な事実を巧みに組み合わせて理想的国家を設計しようとする実務的な発想とは対極的な思考の所産である。

 プラトンの思想は、様々な偶有性によって彩られた不合理な現実に対して、寛容であるよりも酷薄であることを選択する。彼は事物の本質を蔽い隠す現象界の混濁を愛さない。明瞭な秩序に基づいて境界が画定され、総ての事物が本来の位置に留まり、不合理な混淆が排除されるような世界を志向している。換言すれば、プラトンにおける「真理」は紛れもない「権力」の機構なのである。こうした性向が、西洋における巨大な「哲学」の体系を構築する原動力として機能したことは確実である。同時に、こうした「真理」は、その本性において抑圧的で暴力的な側面を濃密に有している。プラトニズムの精髄は、現象的な世界と、それに内属する諸々の多様な事物に対する「審判」の原理の裡に宿っていると考えるべきである。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)