サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「メノン」に関する覚書 2

 引き続き、プラトンの『メノン』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「プロタゴラス」や「メノン」といった初期の対話篇において、「美徳アレテー」という観念の正体に関して繰り広げられる果てしない問答は、明確で完結的な解答に辿り着かない。恐らくプラトンにとって「対話篇」という記述の様式は、既に完成した理論的な学説を、敢えて意図的に「問答」の形式へ移植したというものではないだろう。これは私的な推測に過ぎないが、プラトンは刑死したソクラテスの姿を脳裡に想い描きながら、かつての師父との対話を想像的に構築する作業を通じて、漸進的に自己の思想を深めていったのではないかと考えられる。つまり、プラトンの対話篇は、予め準備された特定の正解に向かって合理的に設計された著述ではない。従って個々の対話篇が、その掉尾において明瞭な解決や完璧な学説に到達しないのは、作品の不備でも破綻でもないのである。

 だが、殊に「美徳」という主題を巡って交わされる哲学的対話の過程に関しては、美徳の「本質」或いは「実体的内容」に就いて探究を試みるという身構えの裡に、そうした未解決の原因が潜在しているのだと考えることも可能であるように私は思う。そもそも「美徳」とは、何らかの固有の実体的内容に埋め込まれた本質的な要素ではない。智慧や勇気や節制や正義は、それ自体が「美徳」という理念を自動的に構成する訳ではなく、美徳そのものと一体的に融け合って存在しているのでもない。これらの要素が「美徳」の一部として計上されることは何ら奇異な事態ではないが、こうした倫理的価値の承認という過程は、徳目の内部から必然的に湧出する経緯ではないのである。智慧や勇気や節制や正義を「美徳」の範疇に組み入れる為には、それらを「美徳」と看做す前提となる理念が必要である。

 換言すれば、美徳とは具体的な徳目によって示される観念ではない。それは人間の信奉する様々な価値が、それ自体で独立した存在の内容を持つ訳ではないことと同義である。「美徳」という理念を、倫理的な領野における「価値」の異称であると考えるならば、価値とは一つの実体ではなく、価値を承認する主体と、価値を承認される客体との間に築かれる関係性の様式の一種であると看做すべきである。価値の内実は、価値を定める主体の恣意的な思惑によって随時に変更され、確定される。従って「美徳」の内実を見定める為には、美徳と思しき徳目と、それを美徳と判定する主体との関係性の構造が明示される必要がある。奇怪な言い方に聞えるかも知れないが、美徳の本質は空虚であり、その空虚には如何なる要素であっても原理的に代入することが可能なのである。

 美徳の本質が空虚であるのは、そもそも美徳という理念が実体ではなく関係であり、内容ではなく形式であることの必然的な反映である。或る行為や性質が、倫理的価値の保有を認められるのは、それが主体による承認を享けているからであり、行為や性質の裡に価値そのものが実体的に含まれている訳ではない。言い換えれば、個々の行為や性質そのものは如何なる価値も保有していない。純然たる客体に向かって価値を賦与するのは、生命体の論理であり、人間的精神の齎す恣意的な裁定の効力である。事物そのものから特定の価値が析出されるのではなく、専ら生命体の側の都合に応じて、主観的な価値の「贈与」が実施されるのである。換言すれば、価値という観念は生命体の内部にしか存在せず、それは客観的な実体を備えていない。

 客体が価値を帯びているのではない。価値は専ら主体の内部に存在し、主体と客体との関係性の形態として顕れるのである。従って、美徳とは何であるかという設問に対して、具体的な行為や性質を以て回答するのは本来的な解決を齎さない。強いて言えば、美徳とは主体によって価値があると認められた客体の総称であり、厳密には主客の間に形成される関係の形態そのものの名称なのである。

 それならば、価値とは一体何か? 価値は、私の考えでは一つの「偏向」(deflection)であり、或る偶発的な「事故」(accident)の結果として形成される、奇妙な「偏倚」(deviation)である。或る特定の事物に価値を認めるということは、その事物を他の事物から区別し、それに何らかの優越性を賦与するということである。だが、或る事物に優越性を認めるという発想自体の裡には、既に或る不合理な偏向が含有されている。純粋なる客観的理性という機構を仮に想定した場合、地上に生起する事物の一切は相互に平等であり、そこに優劣という偏向した尺度を持ち込み得る余地は存在しない。つまり、純粋なる客観的認識において「依怙贔屓」という観念は機能しないのである。

 純粋なる客観的認識は、つまり完璧に公正な理性は、事物の存在を受動的に知覚し、受容することに専心するばかりで、それらの認識的内容を「優劣」という規矩に基づいて再構成することには関心を持たない。従って「価値」という観念の成立は必然的に、純粋なる客観性の破綻を前提として含意している。価値を認めるということは、特定の事物に肩入れすることであり、しかも肩入れの対象は銘々の個体によって恣意的に定められる。あらゆる価値の源泉は、不合理な偏向であり、そうした偏向は、合理的な必然性の体系からの逸脱と同義である。純粋なる客観的認識の追跡する論理的階梯から、そのような奇態な偏向が析出される理由は存在しない。

 こうした「偏向」の生じる背景には、人間に限らず、そもそも生命体という存在自体が、唯物論的な自然に対する「偏向」として形成され、活動しているという事実が関与しているのではないかと私は思う。至極素朴な意味で、生命体が自らの増殖と発展を望み、衰弱と死亡を忌避するという基礎的な志向性を有している時点で、その存在の総体が「偏向」に覆われていることは明瞭な事実である。そして肉体的な快苦の感覚が、生命体の基礎的な「偏向」と概ね相関するように構成されていることも事実だろう。ヘレニスティックな倫理学的通念が、こうした素朴な快楽原則の適切な運用を企図するのは、それが人間の有する基礎的な生物学的偏向への最適化を意味するからだろうと考えられる。

 だが、ヘレニスティックな倫理学が信奉する諸々の徳目、つまり「美徳」の実体的内容は、それ自体が一種の歴史的且つ集団的な偏向の産物であり、彼らの教義を受容するかどうかの選択は、彼らの信奉する徳目を受容するかどうかという判断の確定を事前に要求する。彼らの信奉する徳目に合意する限りにおいて、彼らの教義への肯定は形成される。例えば「智慧」「正義」「勇気」「節度」「敬虔」といった古代の徳目(勿論、これらの徳目は現代においても、その価値を認められているものが多いという意味で、広範な普遍性を備えていると看做すことが可能である)は、それ自体が既に「偏向」の産物であり、これらが挙って「美徳」という観念そのものを構成していると考えるのは妥当な判断ではない。これらの徳目は、或る特殊な偏向の下に「美徳」という範疇へ偶発的に組み入れられたものである。「美徳」という範疇自体を形作っているのは個々の具体的な徳目ではなく、人間の精神における「偏向」そのものである。

 価値に関する議論は、原理的に「公正」という理念を欠いている。事前に定められた特定の「価値」に関する合意に基づいて、その実現に向けた最も合理的な選択肢を論じること自体は、純然たる知性の働きの問題である。従って、それらの知性的な議論の内容に就いては、事前に合意された「価値」を規範として、人々は「公正」という観点から個々の意見を整理することが出来る。だが、そもそも如何なる「価値」を共有するかという時点で意見が分かれた場合には、相互に異なる別種の「偏向」同士が対立しているのであり、それらの個別的な「偏向」を綜合するような超越的論理の制定と介入を期待することは出来ない。或る「偏向」を異なる「偏向」によって裁くことは原理的に不可能である。デモクラシーにおける多数決の原理は、そのような「偏向」による「偏向」への審判を正当化する為の便宜的な擬制に過ぎない。

 「美徳」の内実を、普遍的な仕方で一義的に確定する行為は、不当な超越性を伴っている。従って我々は「美徳」の内実を個別的に合意するしかない。事前に、超越的な普遍性の名の下に、具体的な徳目を荘厳するのは明らかに欺瞞である。我々は銘々の単独な「偏向」に基づいて、自己の実存を形成することしか望み得ない。具体的な徳目を実践する為の技法を、普遍化された知識として共有することは可能である。だが、美徳という名称を冠せられた或る特定の「偏向」そのものを万人と共有することは不可能である。普遍性という観念は、根源的な「偏向」の実在を抑圧する暴力的な制度に他ならない。

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)