サラダ坊主日記

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プラトン「テアイテトス」に関する覚書 4

 プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「知覚=アイステーシス」(aisthesis)は、絶えざる「生成」の裡に育まれる刹那的な現象である。知覚する主体と知覚される主体との一時的な癒合によって、その都度、人間の精神の内部に育まれ展開されるのが「知覚」という感性的な認識の現象である。

 プロタゴラスは、銘々の個人の裡に顕れる「知覚=アイステーシス」を「真理」と看做す。この場合の「真理」という言葉は、プラトンにおける「真理」と異なり、銘々の個人にとってのみ「真理」として適用し得るものであり、その相対主義的な原則は、万物に対して普遍的に妥当する「真理」の君臨を認めない。言い換えれば、プロタゴラス的な「真理」は頗る主観的な性質を帯びているのである。

 こうした考え方は、ヘラクレイトスの所謂「万物流転」(panta rhei)の学説と緊密に結び付いている。あらゆる事物が厳然たる「実在」ではなく、流動的な「生成」の過程に組み込まれている以上、如何なる制限も超越して普遍的に「正しい」と認められる「真理」など有り得ない。そして我々の知覚が、絶えざる生成の裡に顕現する流動的な現象であるという事実は、普遍的な「真理」の介在を認めない主観的な考え方の下では、「知覚」の内容が「真理」として遇されることの妨げにはならない。つまり、我々の「知覚」を「真理」と結び付ける言説は、万物を生成的なものとして取り扱う「相対主義」(relativism)の圏域においては、尤もらしく正当な見解なのである。

 こうした相対主義的な学説、森羅万象を「生成の過程」として定義する「万物流転」の学説は、我々の認識における「同一性」(identity)の観念を抜本的に排撃する。何らかの事物が普遍的に保持し続ける「同一性」のことを、プラトンは「実体」(ousia)や「実有」(idea)といった言葉で呼んだ。この「同一性」を認めることは、要するに「存在」或いは「実在」という観念の適用を批准することに等しい。それは絶えざる生成と流転の過程から、個別的な実体を切り分けることを意味する。

 「同一性」の観念は、知性の機能によって、知覚的な対象に向かって宛がわれる。単なる無意味な信号の奔流に過ぎないアイステーシスの領域を、様々な方法を駆使して編輯し、単なる知覚的な信号以上の「意味」を創り出すことが「知性=ヌース」(nous)に課せられた重要な役割である。言い換えれば「知覚=アイステーシス」と「知性=ヌース」が、それぞれに割り当てられた機能の領域は根本的に異なっているのであり、両者を天秤に掛けて二者択一の隘路へ自らを追い込む必要は微塵もない。しかし、プラトンの立場は完全なる「実在論」(realism)であり、アイステーシスを通じて得られる認識の優越性を厳格に排除する方針を堅持するものであるから、プロタゴラス的な相対主義は断じて容認し難い。相対主義的言説を極限まで推し進めた場合には、例えば「自己」の連続的な実在さえ否定せざるを得ないことになる。それはプラトンにとって「真理の不在」を意味する。彼の信奉する「真理」は、事物における永久的な同一性の異称である。加之、彼にとって「同一性」という観念は単なる知性的な仮象ではなく、揺るぎない「実体」なのである。アイステーシスを通じて獲得される事物の認識は、確乎たる同一性の不完全な投影に過ぎない。極端に言えば、プラトンにとって「知覚」とは「虚偽の認識」そのものである。

ソクラテス したがって、わたしの知覚はわたしにとって真なのである。なぜなら、それはつねにわたしの有の知覚なのだから。そして、プロタゴラスによれば、わたしこそが、わたしにとって有るものには有ることの、ありもしないものにはありもしないことの判定者なのである。(『テアイテトス』光文社古典新訳文庫 p.110)

 ヘラクレイトスプロタゴラスの言説が、所謂「唯名論」(nominalism)の立場に親しいものであることは事実だとしても、彼らが普遍的な「真理」の概念を根源的に否認していると断定することは、必ずしも適切な判決ではないように思われる。プラトンは、彼らの言説を批判する為に、その論理を精密に敷衍して、或る極端なコロラリーへ帰着させているのである。それはプラトン自身が、自らの信奉する実在論的な方針を極限のコロラリーへ導いていることの反映であるようにも感じられる。彼は「万物流転」のノミナリズムが、絶対的で超越的な「真理」の審級を欠いていることを論難する。若しも「知覚=知識」(この場合の「知識」という言葉は「真実の認識」を指している)という等式の成立を認めるのであれば、我々は誰一人として「謬見」(doxa)に陥ることが出来ない。一人一人の抱えている主観的な認識が悉く正しいのであれば、その認識の内実が「真理」の基準に照らして虚偽であったとしても、構造的な理由から、我々はその認識の欺瞞的性質を認定する権利を持たない。それならば、正しい知識の持ち主が、無智な人間を教育するというソフィストの業務は原理的に成立しないのではないかと、プラトンは聊か皮肉な口調で指摘する。

ソクラテス ほかの点では、かれが、それぞれの人に思えることが、そのとおりに有りもすると語ったことは、わたしには非常に興味深い説だと思えたのです。しかし、わたしは論の初め、すなわちかれの著作の『真理』の初めでかれが、われわれのほうでは知恵の点において、まるで神のような人としてかれに驚嘆しているけれども、かれの側では、自分がほかの人間以上にすぐれていないのは当然のこと、そればかりかカエルの子オタマジャクシよりも、知の点でなんらすぐれていないのだと示すべく、われわれに向かって、「知」の大盤振る舞いをしてみせながらわれわれ人間を完全に軽蔑しきって語り始めるために、「万物の尺度はブタである」とか「万物の尺度はヒヒである」とか、あるいは「万物の尺度は、感覚能力をもつほかの生き物のうちの変わったものである」と言わなかったということを、不思議に思いました。それともどう言いましょうか、テオドロス?

 と申しますのも、もし各人が知覚を通じて判断することがその人にとって真であるのならば、そして、或る人の状態を他人が本人より良く判定することもなく、或る人の考えが正しいか虚偽であるかを調べるのに、本人以外の人間がより権威があるということもなくて、しばしば言われるとおりに「自分のことは各人がただ自分ひとりで判断してゆく」のであり、しかもその考えはすべて正しく真であるとするならば、いったいどうして、お仲間よ、プロタゴラスこそは「知恵のある者」であり、それゆえにまた、多額の報酬までつけて堂々とほかの人々の教師になってしかるべきだと考えられることになるのでしょうか? それに対し、われわれはといえば、より無学であって、学ぶためにかれのもとへ通わなければならなかったのでしょうか? ――そのわれわれはそれぞれ、自分が自分の「知恵の尺度」であるのに、ですよ! これは、「プロタゴラス氏は自説において、大衆を相手に迎合して語っている」と言わずに済まされるようなことでは、けっしてないでしょう。(『テアイテトス』光文社古典新訳文庫 pp.115-117)

 極端な相対主義、極端な唯名論は、確かに普遍的な「真理」の実在を否認するだろう。この場合の「真理」とは、プラトン的な「同一性」の概念を指している。けれども、こうした両者の対立は「真理」という概念に関する定義の齟齬に起因するものではないだろうか? 普遍的で永久的な「同一性」を「真理」として定義するプラトンの考え方は、独特の屈折を孕んでいるように思われる。「真理」を「書き換えられないもの」として定義すること自体は、不当な謬見ではない。けれども、その「真理」が「時間の裡で遷移する」可能性を無条件に否認する必要があるだろうか。プラトンの「真理」は無時間的な性質を備えている。時間の経過に応じて遷移する性質は、揺るぎない「同一性」の規矩に反するからである。言い換えれば、プラトンの思想は「時間」という観念を根本的に拒絶しているのだ。それは彼が「生成」を拒絶し、蔑視していることと繋がり合っている。プラトンの世界は、絶対的な「静止」によって支配されている。如何なる状況においても、正しいものは正しく在り続けるという固陋な信仰は、プラトンの世界から「時間」という生成の原理を奪い去っているのである。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 文庫