サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 4

 引き続き、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「国家」の前半における中心的な主題が「正義」という概念の厳密な本質的規定に存することは、一連の議論の推移を徴する限り、明瞭な事実である。そして「理想的国家」の性質に関する厖大な論究の涯に、作中のソクラテスは四種の美徳を見出し、その本質に就いて簡潔な定義を提示する。「知恵」「勇気」「節制」「正義」の四つの徳目は、厳密に検討するならば、その総てが倫理的価値において、一律に水平的な配置を与えられている訳ではない。ソクラテスの議論は「知恵」「勇気」「節制」の三種の美徳の間に築かれる適切な調和を「正義」の名の下に称揚している。先述した三種の美徳(知恵・勇気・節制)は、所謂「魂の三区分」の学説に基づいた、人間の「霊魂=精神」における局所的な規範であるが、最後の徳目、即ち「正義」は、それらの部分を統合する全体的な性質を備えた俯瞰的美徳なのである。

 プラトン倫理学的知見における重要な根幹は「支配・管理・統制」の理念によって構成されている。知恵によって感情と欲望が制御され、尚且つ、その制御に関して感情と欲望の側から叛逆が起こされる危険が存在しない状態を、プラトンは「正義」の実現であると結論した。この「調和」が、或る強固な知性的権力の期待に基づいて描かれた規律的な夢想であることは明らかである。「知性」による堅牢な統制の実現への意志、感情や欲望といった盲目的で流動的な現象への嫌悪、不合理を排除して一切の事物を整然たる「本質」の秩序の裡へ適正に配置しようと企てる偏執的な野心、これらの特徴は相互に絡み合って、プラトニズムの独創性を成立させている。

 プラトンの哲学は、エピクロス的な「自然」の観念と根本的に相容れない性質を孕んでいる。エピクロスにとっての「自然」は、原子の運動において不定期に惹起される「偏倚」によって偶発的に生成されるものであり、従ってそれは事前に準備された設計図とは無関係な形態を持ち、尚且つ常に流動して確固たる形態の裡に留まり続けることがない。こうした世界観ほど、プラトンの思想と対蹠的な論理に則って構成されたと言えるものは他に考えられないだろう。プラトンにおいては、あらゆる感覚的物質は完全なる理念としての「イデア」(idea)の不完全な模倣、或いは「分有」の所産であると定義される。本質と偶有との錯雑した混淆の結果として形成される感覚的物質の世界は、エピクロスの考想とは反対に、明らかに美しい設計図の存在を前提としている。完璧な理念としての世界が、不完全な現象界に先行して実在するという理路は、プラトニズムの思想的な動脈を成す学説である。

 例えば様々な形状や性質を備えた無数の岩石を、或る共通項に基づいて「岩石」という概念に集約する抽象的思考の働きは、飽く迄も経験的な現実に対する解釈の技法であるように感じられる。その場合に、個々に存在する具体的な岩石を「岩石」というイデアの分有された状態、つまり「岩石」としての本質と、様々な偶有的要素との多様な混淆と結合が行なわれた状態であると看做すのは、エピクロスの自然学的な認識と正面から背馳している。換言すれば、エピクロスの「自然」が生成的なものであるのに対し、プラトンの「自然」は制作的なものなのだ。エピクロスの「自然」は「クリナメン」(clinamen)の作用に基づいて偶発的に生成されるのに対し、プラトンの「自然」は或る崇高な超越的意図に基づいて、必然的な仕方で制作されるのである。

 プラトンにとって、感覚的現実において把握される総ての事物は「被造物」である。この制作的な世界観の根底には、或る超越的な設計図に基づいて万物を創造する主体的意志の存在が前提として組み込まれている。世界の総体が被造物であるならば、それらは造物主における主体的意志の必然的な反映であり帰結であるということになる。それは様々な偶発的要素の複合的所産ではなく、無目的に生成された流動的現象でもない。事物の一つ一つに何らかの固有の意味や価値を発見しようと試みる世界観は、その価値が顕在的であるか潜在的であるかに関わらず、超越的な絶対者の介入を想定している。例えば個別の自転車は「自転車」という一つの技術的な範型に基づいて実際に製造され、我々の社会に流通している。各々の自転車は「自転車」という「本質」に、多様な偶有的要素を附加することによって造型され、存在している。その背後に誰かしら「制作者」と称すべき主体の意図が関与していることは明白である。プラトンは、感覚的世界を「個別の自転車」のように捉えている。そして真実在としての「自転車」に到達する為には、一切の偶有的要素が除去されねばならないと推論する。だが、如何なる偶有的要素も含まない純然たる「自転車」が、物質的世界の裡に明確な形態を備えて実在することは原理的に不可能である。何故なら物質的世界の裡に実在するということは、必ず交換可能な部分、つまり「本質」に属さない偶有的な部分を保持することと同義であるからだ。

 本質とは、相互に異なる個体の間に共通して見出される要素のことである。同時にそれは、或る存在の範疇の固有性を維持する最低限の要件を意味している。純然たる本質のみの状態で感覚的世界に現前するということは、如何なる可換的要素も含まない状態で地上に顕現するということと同義である。しかし「具現化」という現象は必ず「個物としての実在化」を伴うように構造的に規定されている。「個物」は、その本性において相互に異質であり、独立的である。言い換えれば、存在の本質は、相互に異質な個物を経由してのみ、我々の感覚的認識の機能に与えられ、開示されるのである。存在の本質は、感覚的形態を持たない。それは総ての感覚的形態に共通する特性として理性的に把握されるのであり、如何なる感官によっても捕捉することの不可能な超越的対象である。

 こうした認識の形態が、プラトンの重んじた幾何学の分野において最も明瞭な姿で顕現していることは確実である。幾何学における図形は、感覚的形態として顕れる総ての個別的な「形状」の抽象化された様態である。教科書や黒板に記された具体的な図形も含めて、あらゆる可感的図形は「図形の本質」の不完全な転写として我々の視野を領している。何故なら「図形」とは個別の具体的形態ではなく、或る「関係性」そのものの抽象的な形式化の所産であるからだ。例えば我々は「線描の太さ」を一義的に規定し得ない。様々な太さの線描を集めて、その共通する要素を抽出する場合、何れの太さの線描が完全に本質的であるかという問題に、厳密な正解を賦与することは不可能である。「関係性」に可感的な形態を授けることは出来ない。換言すれば、存在の本質とは即ち「関係の形式」なのである。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)