サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 5

 引き続き、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「本質」という概念に関する考察を深めて、その思索における役割や機能を明瞭に理解することは、プラトンの思想を適切に把握し、その成果を有意義に活用するに当たっては、非常に重要な作業であると言える。事物の本質を問うという知性的営為は、プラトンの思想や哲学の根幹を成す、最も基礎的な手法であるからだ。

 我々の外界に関する認識が、経験論的な知覚から始まることは普遍的な事実であろうと考えられる。そして我々の認識における進化は、経験論的な知覚の齎した情報が記憶の裡に蓄積されることによって促進される。我々は複数の認識を、記憶の機能による助力に与りながら相互に照合し、比較し、両者の関係を精査する能力を備えている。これが「思考」の最も基礎的な形態である。この「関係」を見出す能力、夫々に個別に存在する事物の間の関係性を生成する能力、これが我々人間の「理性」を構成する重要な過程であり、方法である。

 別けても、この「理性」の働きにおいて「本質」という概念の形成に決定的な影響を及ぼすのは「同一性」の認識であると言えるだろう。複数の事物を比較して、それらの間に何らかの「同一の要素」を措定する能力は、我々の理性の裡に「本質」という概念の原型を宿らせる。この「同一の要素」だけを選択的に抽出し、それ以外の要素を偶有的な部分として捨象するのが「本質」という概念の形成の過程である。

 一般に、こうした「本質」の概念は、経験論的な知覚の編輯を通じて形成される理性的な仮象として受け止められている。しかし、プラトンは「本質」を個別的な事物に先行する「真実在」(ousia)として定義し、夫々の事物は「本質」を分有することで生成されたと考える。プラトンにおいては寧ろ、経験論的な知覚を通じて捉えられる事物の現象的な形態こそ「仮象」なのである。

 こうした逆転は、素朴な経験論的発想を覆し、世界に対する認識の関係性に就いて、新たな局面を開拓するものである。プラトンは経験論的知覚を認識の主観的な要素として規定することに異議を唱える。彼は存在の「本質」を把握することに「思考」という営為に課せられた最も重要な使命を見出しているのである。そして具体的な事物を「本質」に還元するという手続きを経由することで、彼は「思考」の可能性を拡張しようと図ったのだと看做すことが出来る。

 例えば経験論的思考においては、幾何学における「図形」は、諸々の具体的個物の形状から抽象的還元の作業を通じて取り出される便宜的な「仮象」である。しかしプラトニズムにおいては、幾何学的図形は諸々の具体的個物に先行し、それらを超越する「真実在」として定義される。寧ろ具体的個物の形状は、事前に存在するイデア的図形に基づいて形成されると看做されるのである。プラトンは総ての事物に関して、その超越的な「設計図」の先行を承認する。そして、このような発想に依拠する形で、森羅万象を「被造物」と看做す制作的な世界観が顕現するのである。

 プラトンの「国家」における諸々の煩瑣な議論もまた、こうした「制作的世界観」に基づいて展開されている。彼は偶発的な要素の累積を通じて無作為に形成される歴史的な「国家」の実態を「国家」の名の下に承認することに否定的な方針を示している。何故なら、彼の論じる「理想的国家」とは「国家」という概念の本質的抽出によってのみ開示されるべき対象であると看做されているからだ。現実に存在する「国家」は、諸々の偶有的要素によって汚染された不完全な「国家」に過ぎない。プラトンの議論は、そうした実在の「国家」に抽象的還元を施すことによって「国家」の本質的要素のみを選別し、救済することに主眼を置いている。プラトニズムの用語法においては「本質」と「理想」とは、実質的に同義語なのである。あらゆる被造物を、理想的な設計図に向かって改変し復元すること、偶有的要素を悉く洗い流して、抽象的本質だけを取り出すこと、これがプラトンにおける思索の主要な目的である。

 「本質への回帰」という命題は、プラトニズムにおける倫理学的要請であると言える。可能な限り、存在の「本質」へ接近すると共に、事物を「本質=理想」の状態へ向けて改変していくこと、個々の事物の単独性を超越すること、或る巨大な同一性の下に森羅万象を統合すること、これらの方針が、プラトニズムにおける実践の根幹的部分を構成している。

 こうした壮大で空虚な形而上学的思考の形態に向かって、エピクロス的な経験論的実証主義の観点に立脚しながら、頗る実際的な批難の言辞を投擲することは、科学的な合理性の観念に慣れ親しんだ現代の人間にとっては容易い企てであると思われる。「霊魂の不滅」や「イデアの実在」といった超越的考想に関して、その実証性の欠如を声高に問責し、具体的な根拠を欠いた妄想的な謬見に類する暴論であると断定することは、言葉さえ操れる者ならば誰にとっても簡単な作業である。しかし、プラトニズムの驚嘆すべき強靭な膂力は、そのような尤もらしい簡便な反駁に遭遇しても一向に震撼されない堅牢な秩序を保持し続けてきたと言えるだろう。エピクロスの批判は、キリスト教神学と習合した本質主義の実効性を瓦解させることに失敗した。プラトンの提示した煩瑣で抽象的な学説を、経験論的な現実から乖離した荒唐無稽の空論として幾ら熱心に弾劾したとしても、それによって本質主義的な思考の持つ方法論的な価値が減殺される訳ではない。イデアの実在を謳うことは確かに形而上学的な「越権」であると謗られても仕方ないだろう。しかし、本質主義的な思考の構図が備えている有用性は、現に人類の発達と進化に大きく貢献してきたのである。

 本質主義と経験論的な実証主義は、人類の文明を発展へ導く知性の両輪であり、銘々の機能は相互に対立と補完を繰り返しながら、実に多様な革命的知見を創出してきた。先ず想像的な仮説を形成し、それを実証によって確かめるという思索と認識の螺旋的な循環は、知性的創造の歴史を貫く最も重要な命脈である。「思索=実践」や「抽象=具象」といった形で示される二元論的相剋は、こうした螺旋的循環の躍動的な性質を意図的に軽んじている。

 けれども、そのように厳密な峻別を仮構した上で論理的な検討を加える作業は、つまり二元論的な区分の意識的な設定は、事物の構造に関する我々の視野を確保する上で有効な手続きであると言える。このような抽象的作業は確かに、我々が肉体的感覚を通じて享受する諸々の経験論的知覚から遊離している。しかし、経験論的知覚から微塵も遊離し得ない知性というものを想像してみれば、それが如何に貧弱で動物的なものであるか、直ちに理解し得るのではないだろうか。プラトン形而上学的な空論は、眼前の経験論的な現実から飛躍して、新たな知見を創出し、新たな視野を開拓する為には必要な手続きである。少なくとも「理性」の役割は、経験論的な「感性」だけでは構成し得ない抽象的な見取図を発明することに存していると言える。現実から乖離した理性的仮象を、経験論的な確証の欠如を理由に断罪するのは軽率な振舞いである。

 尤も、エピクロスとしても理性的仮象の形成を否定している訳ではない。感覚によって確証されない学説を直ちに妄説として排斥することは、エピクロスの哲学的方針に反する選択である。彼が危惧を示したのは、感覚によって確証されない特定の抽象的空論を、独善的な仕方で「真理」の王位に登極させることの不合理な「越権」に関してである。感覚によって確証されない事柄に就いては、複数の理論が適用され得ることを認めねばならないとエピクロスは説いた。こうした「両論併記」の知性的道徳は、プラトン形而上学的な論証の効用自体を排除するものではない。現代ほど科学的技術の発達していなかった紀元前のギリシアにおいて、自然学の探究に身を捧げたエピクロスが、抽象的な仮説の意義を軽視したり迫害したりしていたと看做す明確な理由は存在しない。例えば彼の提示した偏差的な原子論は、感覚を通じて経験論的に確証された学説ではない。その意味では、彼の偏差的原子論は明らかに「空論」の範疇に属している。根本的に重要なのは、抽象的思考を通じて案出された理論的見解の複数性を保持することである。経験論的現実から飛躍する為の回路は常に多様な航跡を描き得る。人間的知性の発達の程度は「理路の多様性の拡充」によって測られるべきなのである。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)