サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 11

 プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンは「教育」という言葉に独自の含意を埋め込んでいる。彼にとっての「教育」は、単に技術的な知識の蓄積や発展を意味するものではない。彼が重視するのは「世界観」の「書き換え」である。言い換えれば、彼は「仮象」から「実相」へ向かって、他者の思惟の対象を移行させることに「教育」の本義を見出していたのである。

 プラトンの考え方に基づけば、事物の認識に際して肉体的な「感官」に依拠することは、最も「真実」から隔たった方法であると看做される。「感覚」に生じる諸々の情報は、事物の普遍的な「本質」を示すものではなく、飽く迄も一過性の表層的な「現象」の反映に過ぎないと定義され、劣位に定置される。彼は「感覚」から出発して漸進的に「抽象」へ至るという人間の知性的発達の過程を、大胆にも逆転させている。一般に抽象的な観念は、感覚を通じて把握された現実を蒸留することで得られる、人工的で便宜的な「仮象」であると目されている。従って抽象的な思惟の精度は、感覚を通じて把握された経験の総量によって規定されることとなる。経験という原料をより多く蒐集した方が、導き出される抽象的な認識の精度は高まると信じられているのである。このような考え方に対して、プラトンは最も尖鋭な対立者として振舞う。彼は感覚的な経験を「実在」と看做す代わりに、それらを不正確な「仮象」として、真実から遠く隔たった謬見として遇するのである。何故なら、彼は感覚的な経験の累積として抽象的な思惟が成立するという考え方に同意しないからだ。寧ろ彼は抽象的な思惟が、感覚的な経験という不完全な「仮象」によって妨げられ、真実への通路を遮断されていると看做すのである。

 「それならば」とぼくは言った、「教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」(『国家』岩波文庫 p.116)

 知識を外在的な物象のように捉える経験論的な思考をプラトンは峻拒する。彼にとって感覚的な経験は、幾ら積み上げたところで真実への到達を補助するものではない。不正確な事実を無限に蒐集しても、それが不意に醗酵して光り輝く真実に一変するということは期待し得ない。寧ろプラトンは、感覚的な認識を謬見と定義することで、いわば清浄な叡智を汚染する障碍として、積極的に貶下しているのである。感覚的認識を取り払い、事物の普遍的な本質だけに眼を向けること、それがプラトンにおける思惟の望ましい形式である。

 事物の普遍的な本質は定義上、如何なる条件によっても左右されない恒常的な要素を指す。従ってそれは時間的な生成変化の影響を絶対に免かれている。同一の事物に接しながら、時間の推移に応じて変化するような認識は、事物の本質を捉えているとは言い難い。端的に言って、本質は決して変異しないからである。仮に変異するのならば、それは事物の本質としては認められない。それは事物の本質に付着した偶有的要素に過ぎないと判定される。

 我々の感覚が微妙な個体差を持ち、同一の個人の裡にあっても、肉体的な条件の変化に応じて変動し得るものであることは事実である。そのように変異する認識的媒体が、事物の普遍的な本質の把握に最適な手段であるとは言えないとプラトンは考えた。彼は「肉体=感覚」によって事物を捉える経験論的な枠組みを棄却し、徹底して「魂=理性」による認識の本来的な普遍性を強調する。「魂」こそが本来の認識の主体であり、現象的な肉体は「真実在」の把握を阻害する邪悪な要素として批難される。

 「そうすると、魂の徳とふつう呼ばれているものがいろいろとあるけれども、ほかのものはみなおそらく、事実上は身体の徳のほうに近いものかもしれない。なぜなら、それらの徳はじっさいに、以前にはなかったのが後になってから、習慣と練習によって内に形成されるものだからね。けれども、知の徳だけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官〔知性〕は、自分の力をいついかなるときにもけっして失うことはないけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものともなるのだ。それとも君は、こういうことにまだ気づいたことがないかね――世には、『悪いやつだが知恵はある』と言われる人々がいるものだが、そういう連中の魂らしきものが、いかに鋭い視力をはたらかせて、その視力が向けられている事物を鋭敏に見とおすものかということに? この事実は、その持って生まれた視力がけっして劣等なものではないこと、しかしそれが悪に奉仕しなければならないようになっているために、鋭敏に見れば見るほど、それだけいっそう悪事をはたらくようになるのだ、ということを示している」(『国家』岩波文庫 pp.116-117)

 「身体の徳」は、時間的な生成変化の枠内で培われるものであるが、一方の「魂の徳」は、そのような時間の法則を超越し、常に完成した状態で人間の内部に備わっていると看做される。こうした考え方は所謂「想起説」(アナムネーシス)の議論とも緊密に関連した思想である。知識は時間の経過に附随して蓄積される「金利」のようなものではなく、予め人間という存在の内側に用意されているのである。問題はそれが適切な仕方で発現し、適切な対象に向かって捧げられているかどうかという点に存する。悪事を働く人間は、無智のゆえに悪徳を帯びるのではなく、その知性の運用が適切な対象に結び付けられていない為に悪徳なのである。

 純然たる白紙に諸々の知識を書き込んで増やしていくという「タブラ・ラサ」(tabula rasa)の発想に、プラトンの教育論は鋭く背馳している。何故なら、彼にとって経験的な認識は、事物の普遍的な本質ではなく、雑駁な偶有的仮象を示すものでしかないからだ。仮象に関する認識を幾ら累積しても、それは普遍的な本質の把握を阻害する要因にしかならない。別の言い方を用いるならば、プラトンの学説は極めて無時間的な特性を備えており、時間の経過と共に累積される知識という発想自体が、彼の思惟の特質と根本的に相容れないのである。「本質」は時間的な変化を超越しているという基礎的な定義を尊重する限り、つまり「本質」と「実在」を等号で結び付ける公理を採用する限り、プラトンは「タブラ・ラサ」の原理を自動的に排除せざるを得ないだろう。彼にとって「教育」は「新たな知識の獲得」を意味するものではない。彼は飽く迄も、事前に存在する真実の認識を「想起」する過程を「教育=学習」と看做すのである。

 時間に応じて生滅する認識を尊重しないという信条は、プラトンの思想の根幹を成す規約である。この規約に従って、一切の感覚的な認識は劣等な謬見として迫害される。プラトンにとっての「思惟」は、事物の偶有的要素を精密に観察する営為を意味しない。感覚的な惑溺は、正当な思惟を妨礙する忌まわしい悪徳である。感覚的惑溺を棄却し、透明で抽象的な思惟の方角へ転向すること、それがプラトン的な「教育」の定義である。尤も、それが理性によってのみ把握されるからと言って、プラトン的な「実在」を空疎な観念と看做すのは誤りである。少なくともプラトン自身においては、超越的な「本質」こそが実在する事物なのであり、感覚的に把握される生成的な現象の方が「幻影」なのである。彼の独創性は、経験的な知覚を逆撫でするような、こうした「逆転」の裡に萌芽する。言い換えれば、彼の独創性は、こうした「メタフィジックス」(Metaphysics)の厳格な探究によって開拓されたのである。事物の背後に絶対的な真実を発見しようとする知性的な努力、これは日本語で「形而上学」と呼ばれる人類の奇怪な宿痾である。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)