サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトニズムの特性に就いて

 最近ずっと、古代ギリシアの哲学者プラトンの著作を少しずつ繙読する日々を過ごしています。仕事や雑事の合間に切れ切れに読むので、その進捗は余り順調ではありませんが、読書の過程で徐々に滲み出てきた個人的な思考の切れ端を、ここに書き記しておきたいと思います。

 所謂「プラトニズム」(Platonism)の最大の核心的な特徴は、その「真理」に関する定義の裡に含まれていると言えるのではないかと思います。プラトンにおける「真理」という概念は、簡潔に要約するならば「超越的で普遍的な事実」を指しています。超越的であり、普遍的であるということは要するに、真理と目される事実に限っては、その内容が如何なる変貌とも制限とも無縁であるということを意味しています。如何なる場合においても不変であるような絶対的で確定的な事実、これが「真理」の要件であると考えられている訳です。状況に応じて頻繁に変動する事実は、こうした要件に適合していない為に、真理であるとは看做されません。

 状況に応じて頻繁に変動する事実は、感覚を通じて把握される「現象」の世界に属しています。現象の世界に属する事実の中で、如何なる変動とも無縁のものは存在しません。現象の世界においては「常住」という概念は成立しないのです。けれども、プラトンにとっての真理は必ず「常住」という性質を保持している必要があります。こうした事情に基づいて、プラトンにおける真理の超越的性質が析出されるのです。つまり、プラトニックな真理は必ず、感覚的な現象の世界を超越するように設定され、配置されているのです。

 感性的な事実は絶えず改訂され、無限の変容の過程を辿ります。永遠に真実であると看做されるような不動の事実は、現象的な世界の裡には存在しません。何故なら、プラトンにとって感覚的な現象の世界は「幻想」に他ならないからです。我々の感覚が捉えるものは、絶対的な真実の片鱗に過ぎず、真実そのものではありません。感覚的な表象は、絶対的な真理の不完全な「反映」であると定義されます。

 このような考え方は一体、如何なる経路を辿って導き出されるのでしょうか。例えばプラトンは「美しさ」と「美しいもの」とを弁別し、尚且つ双方の実在を認めます。例えば、或る個物に関して、場合によって美しく見えたり見えなかったりする事例があることは、我々としても容易に同意し得る事実であると言えるでしょう。それは個物にとって「美しさ」という要素が外在的な特徴であることを間接的に示しています。プラトンは「美しさ」という要素が、特定の個物とは別個に存在すると看做します。そして「美しさ」は特定の個物によって独占されるようなものではなく、或る抽象的な概念として想定されます。けれども、抽象的であるということは、それが仮構された便宜的な想念であるということを意味しません。それは感覚によって把握されないという点において抽象的なのであり、その抽象的な概念の実在を認めるという点に、プラトニズムの基礎的な特徴が表れているのです。

 例えば自然科学の方法論は、何らかの方法で感覚的に実証されない仮説を真実であると断定することに対して頗る慎重で禁欲的です。人間の五感は固より、測定の為に考案された種々の機械や試薬などを通じて、その存在が感覚的に確認されない限り、自然科学は当該の事物の実在を承認しません。論理的な整合性だけでは、仮説が事実へ向かって脱皮することは許されないのです。

 けれども、プラトンは抽象的な概念の実在を、論理的な整合性に基づいて肯定します。その意味では、彼の思想は科学的であるというよりも神学的なものです。或いは形而上学的なものです。科学的な実証主義の観点から眺めれば、恐らくプラトンの披瀝する学説は、恣意的な暴論以外の何物でもないと言えるかも知れません。霊魂の不滅に関する精密で偏執的な論証(『パイドン』)が、如何に入念な配慮に基づいて推し進められているとしても、それが感覚的な実証性を欠いた学説であることは明白だからです。

 個物に附随する「美しさ」は、感覚を通じて把握することが可能です。けれども、その「美しさ」は飽く迄も個物によって分有された「美しさ」であり、その意味では完全な「美しさ」であるとは言えません。何故なら、個物を通じて顕現する「美しさ」は、個物の特性に応じて様々な差異を孕んでいるからです。花の美しさと、女性の美しさと、青空の美しさとは相互に異なります。それらを言語の上で類比的に連結させることは可能ですが、それは個々の美しさが完全に同一であるからではなく、或る不可知の抽象性の下に共通していると看做されるからです。「美しさ」という概念は、諸々の個物から受け取る要素を類比的に要約することで形成されます。諸々の個物から受け取る「美しさ」を集めて蒸留することで析出されるのが、純粋な「美しさそのもの」であるという訳です。この純粋な「美しさ」は、経験的に知覚される個物の美しさとは異なり、透明で抽象的なものです。それはあらゆる個別的な美しさの「源泉」であると定義されます。これが所謂「イデア」(idea)です。

 感覚に対して超越的であるような実在、それが「イデア」の定義です。個物における美しさは流動的で可変的な要素です。しかし、イデアとしての美しさは完全で不変であり、それゆえに人間の感覚的認識を超越しているのです。「本当に美しいものは知覚し得ない」という命題が、プラトニズムを構成する思想的核心です。我々の感覚的認識が個物に基づいている限り、我々が知覚し得る美しさは常に断片的なものであることを原理的に強いられます。「美しさそのもの」を把握するということは、個物から離れた認識を成立させるということですが、それは感覚に割り当てられた任務ではないからです。そこでプラトンが持ち出すのは「理性」という正に抽象的な機能です。イデアを認識し得るのは「理性」だけであるという限定を持ち出す訳です。しかし、そもそも事前に「理性」という機能が存在しなければ、我々は「美しさそのもの」という抽象的概念を考案することさえ出来なかった筈です。従って「美しさ」を把握出来るのは「理性」だけであるという理路は聊か「自作自演」の響きを伴って聞こえます。「美しさそのもの」を作り出したのは、そもそも理性の機能なのではないか、という考え方と、我々は理性の機能を獲得することによって初めて「美しさそのもの」を把握する能力を手に入れたのだ、という考え方が、この辺りで微妙に交錯します。

 或る個物を知覚したときに「美しい」という印象を受け、それに類する経験が記憶の地層に積み重なり、そこから過去に得た「美しい」という印象の共通項を抽出することで、個別の「美しさ」から「美しさそのもの」という概念を析出するのが、理性的な機能に認められた役割です。そして理性的認識を「超越的実在の生成」ではなく「超越的実在の把握」として定義することが、つまり理性によって発明されたのではなく発見されたのだと看做すことが、プラトニズムの根幹を成す論理です。理性的認識の対象が実在すると考えていなければ、それを「発見」することは不可能でしょう。仮に理性的認識の対象が、理性によって構成された「仮象」に過ぎないと考えるならば、それを「発明」することは出来ても「発見」することは出来ません。

 「美しさそのもの」などの理性的な「仮象」が現に実在するのならば、感覚的に把握される個物は、その仮象を分有した不完全な存在に過ぎないということになります。換言すれば、感覚的に捉えられる個物は、明瞭な理性的秩序を欠いているのです。理性的認識こそが「真理」であるならば、確かに感覚的認識は、その堕落した形態として蔑まれるに値するでしょう。プラトニズムの観点から眺めれば、諸々の個物は複数のイデアの錯雑した「アマルガム」(amalgam)です。アマルガムを個別の純粋なる要素に分解し、それらの相互的関係を究明することが「真理」への道程であるならば、確かに感覚的認識は、我々の叡智を曇らせる厄介な障碍に他ならないのです。