「人間」のアレテーに就いて
私は外国語の知識や技能を一切持ち合わせていません。極めて初歩的な英文を漠然と読解し得るくらいの知識しかありません。つまり、ほぼ皆無だということです。
現代における平均的な日本人にとっては最も馴染み深い外国語である英語に関してさえ、そのような体たらくなのですから、その他の言語に関しては推して知るべしといった状況です。
それでは今回の記事の表題に取り入れた「アレテー」とは、如何なる言語に属する単語であるか、皆様は御存知でしょうか。これはギリシア語に属する語彙であり、一般的な日本語訳としては「徳」や「卓越性」といった表現を充てられています。この「アレテー」(aretē)という概念は、古代ギリシアからローマに至る思想の潮流において、極めて重要な地位を認められた主題です。
語学に疎い私が、或る重要な意義を認められたギリシア語の語釈に就いて彼是と能書きを垂れるのは不毛な作業に違いないと思います。古代ギリシアを代表する哲学者であるプラトンの書き遺した夥しい対話篇の中でも、この「アレテー」という概念は実に多義的な振幅を示しており、その定義の及ぶ範囲を明快に規定することは非常に困難です。従って、私は飽く迄も市井の浅学な凡人としての立場から、普遍性を欠いた個人的な見解に基づいて、この言葉に関する粗末な考察を実践してみたいと思います。
「アレテー」を「美徳」と同一視してしまうのは、聊か危険な解釈であるように私には思われます。「美徳」とは人間の行動や思考における「良質な価値」を意味する言葉であり、否が応でも、そこには道徳的な色彩が附随します。けれども、アレテーは単なる道徳的な規範とは異なります。私がアレテーという概念から想起する日本語を幾つか羅列してみるとすれば、例えば「固有性」「本質」「可能性」といった単語が直ちに脳裡へ浮上します。
或る事物や存在が、本来的に持っている優れた固有の要素、それを総称してアレテーと呼ぶのが適切な解釈ではないかと私は思います。つまり、アレテーという概念には「美質」と「固有性」という二つの要素が同時に含まれているように見えるのです。それは単なる固有性ではなく、飽く迄も「固有の美質」であり、そうした「固有の美質」を錬磨して具体的な成果として発現させるのが、倫理学的な鍛錬の目的であると、一先ずは定義しておきたいと思います。
仮にアレテーの定義が「固有の美質」であるとするならば、人間に固有の美質とは何かを問うことが、倫理学的探究における最初の重要な課題となることは明白です。そして私は、それに対する一つの回答として「必然への抵抗」という考え方を提案したいと思っています。
人間が若しも生物としての本能に完全に従属し、外界の現実に適応するだけの存在であるならば、人間は世界の単純な部分に過ぎないということになり、その種族としての固有性は、他の動植物と同一の平面に配置されることになります。ライオンとシマウマとが相互に異質であるように、人間もまた他の動物と相互に異質であるに過ぎないと言えるからです。けれども人間は、過剰に発達した知性の機能によって、本能からの逸脱を常態化する生物となりました(他の動植物に関しても、本能からの逸脱が生じ得るのかどうか、残念ながら無学ゆえに、私は精確な知見を持ち合わせておりません。ですから、飽く迄も実証性を欠いた個人的な暴論として受け止めて下さい)。あらゆる動植物は、現実への適応を生命的活動の中核に据えています。人間に関しても十中八九、現実への適応が重要な課題であることは言うまでもありません。しかし、現実への適応は人間に固有の能力ではなく、寧ろ現実からの逸脱こそ、人間という種族において初めて具現化された革命的な独創性なのではないかと、私は考えているのです。
現実への適応は、現実の強いる必然的な帰結に完全に従属することによって成し遂げられます。生物における様々な進化の累積は、現実に対する絶えざる従属の歴史です。現実の要請する必然性に背くことは適応の失敗を意味し、それは直ちに身の破滅へ帰着します。例えば地球上の気温が大きく低下したのならば、低下した気温に従属して適応しない限り、生命の破滅は避け難い結論です。言い換えれば、現実への適応と、現実によって支配されることとは同義なのです。
しかし、こうした推論の過程は、不正確な要素を含んでいると言えるかも知れません。現実に対する盲従は、あらゆる無生物の特徴であり、その盲従を逃れて固有の原理を持ち、尚且つ現実の諸条件に合わせて適応の方法を改廃し得るものこそ、生物の基礎的な定義であると考えるならば、先述した議論は適切なものではないということになるでしょう。
無生物は専ら現実の強いる必然的な因果律に従うだけの存在です。そうした因果律に抵抗して、自己の存続を図ろうとするのが、生命体に固有の原理です。つまり、生命体という原理は総て「必然性への抵抗」という志向を内包していると看做せるのです。その意味では、この「必然性への抵抗」という概念を、人間に固有の美徳と呼ぶのは精確な表現ではありません。「必然性への抵抗」が生じるのは、生命体の根本的な原理が「不死」を欲望している為です。滅びないこと、外界に対する独立性を失わないこと、それが「不死」の語義です。
この「不死」という状態を達成する為に、あらゆる生命体は様々な手段を駆使して外界の現実に対する適応の実現を図ります。そうした「ホメオスタシス」(homeostasis)の継続的な努力が、不可避的に「必然への抵抗」或いは「運命への抵抗」と称すべき行動を惹起するのです。
このような観点に立脚して「人間」のアレテーに就いて考えてみたとき、直ちに思い浮かぶのは、人間における適応の極めて柔軟な可変性です。例えば一般に生物は気温の変化に対応する為に、固有の体毛を生やします。その種類は自在に変更することの困難な、遺伝子的な制約を享けています。けれども人間は、体毛の代わりに実に多様な被服の手段を有していますし、冷暖房の技術を用いて室内の温度や湿度を調節することも出来ます。「気温」の一事に限って眺めてみても、他の生物と比して、人間の適応の可変性及び柔軟性の高さは歴然としています。
状況の変化に応じて実行し得る選択肢が極めて厖大且つ多様であること、これは明らかに生命体の本義に対する「人間」のアレテー、即ち「固有の美質」であると言えます。そうであるならば、人間に固有の美質を鍛錬する過程は、行動の選択肢の多様性を高めることに他ならないと結論すべきでしょう。それは単に肉体的且つ技術的な鍛錬を意味するものではありません。病気や加齢などの理由で、人間の肉体的自由は容易に損なわれ得るからです。その場合にも適応の多様性を確保する為には、知性の柔軟な運動が不可欠です。自分に出来ないことを他人に負担してもらえるように依頼し、受け容れてもらう社会的関係の構築の技術も、適応の選択肢の一つです。集団に帰属したり、朋輩と協調したりすることで破滅の危険性を減殺することも、適応の選択肢の一つです。こうした選択肢を拡大する為には、単に鍛え抜かれた肉体や優秀な技術を追求するだけでは足りません。最も重要なことは、多様な選択肢の一つ一つを創出する発想力を持つことです。その為には豊富な知識を持ち、多角的な視点で事物を捉える習慣を養わねばなりません。つまり深く厳密に思考する習慣を身に着けることが肝要なのです。極めて退屈な回答のように響くかも知れませんが、以上の議論を綜合すれば、人間のアレテーとは即ち「知性」であるということになると考えられます。