サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「人間的成長」の原理に関する考察

 「成長」という言葉は日常の会話において広範に用いられ、誰もが馴染み深い単語として受け止めているように思われます。そして「成長」という言葉は概ね、肯定的な意義を含んだ善性の概念を指し示すものであると看做されています。

 「成長」という概念の最も根幹に当たる定義は、生物学的な現象に由来するものであると考えられます。様々な動植物が、種子や卵の状態から徐々に変化して規模を拡張し、構造を複雑化し、機能の水準や種類を増大させていく過程が、所謂「成長」の根底的な語義です。それが比喩的に用いられて、無生物も言語的指示の対象の裡に含むようになり、例えば「経済成長」といった表現にまで敷衍されるようになったのだと思われます。

 「成長」は基本的に「増大」という含意を常に伴っています。規模、構造、機能、水準といった様々な指標が「増大」の方角へ向かって変化していくこと、これが「成長」という概念の特質です。例えば子供の身長が伸びることは、最も明快な「成長」の事例です。同時にそれは子供の行動や技能の範囲の拡張を意味しています。身長が伸びること自体は肉体的成長であり、それに附随する行動や技能の拡張は技術的成長であると言えます。このように、成長という概念は極めて多様な分野や領域において、比喩的に適用することが可能な普遍性を備えています。

 それでは、一般に用いられる「人間的成長」という言葉は、どのような領域における成長を指すものなのでしょうか? それは無論、様々な部分的成長を綜合し、統括する概念であると考えられます。例えば肉体的成長もまた、明らかに「人間的成長」の一部を成す過程であると言えます。技術的成長も、恐らく「人間的成長」の部分に含まれると看做して差し支えないでしょう。「人間的成長」の概念は、これらの様々な成長を統合する旗幟としての役割を担っているのです。

 「人間的成長」の本質に関する考察を進めるに当たって、私は一つの補助線を引いてみたいと思います。それは「成長」の性質に関する、或る便宜的な区分です。例えば子供の肉体が加齢と共に発育して大きくなることは、一般的に生物学的な必然性の成果です。何らかの医学的な要因が介在すれば、そのような生物学的必然性は通常とは異なる経緯を辿り、発育は妨げられます。これらの成長は、いわば「自然による成長」です。我々自身の選択とは殆ど無関係に、遺伝子や環境といった外在的条件によって規定される種類の成長の形態です。

 一方、例えば長年の不摂生が祟って中年に差し掛かって俄かに弛緩した体型を、持続的なトレーニングを通じて錬磨し、贅肉を削ぎ落とした場合、これは「自然による成長」ではなく「意志による成長」であると看做すべきでしょう。暴飲暴食による肥満は、或る一つの生物学的必然性の帰結です。そうした必然性に自らの意志に基づいて抵抗を試みること、それによって或る望ましい状態へ向かおうと試みること、これが「意志による成長」の特徴であると言えます。

 「自然による成長」と「意志による成長」との二項対立を別の言葉に置き換えるとすれば、直ちに「受動的成長」と「能動的成長」という一対の表現が思い浮かびます。「自然による成長」は、我々にとっては外在的な要因に基づく変化であり、従って我々は自然の判断に一切を委ねる以外に如何なる選択肢も持ちません。乳児が成人に変貌するのは、専ら我々の内なる自然の齎す恩恵の成果です。そのような変化に対して、我々は自ずと受動的な態度を強いられてしまうのです。

 他方、我々自身の意志に基づく成長は、様々な対象に能動的な仕方で関与しない限り、顕現することの期待し得ない変化です。「受動的成長」に対しては、我々は期待と祈念以外の関係性の構築を有することが出来ません。「受動的成長」の進捗は、我々の主観的な期待とは無関係な航跡を自律的に辿るものであるからです。けれども「能動的成長」の進捗は、我々自身の主体的な関与の程度によって規定されます。関与が深まれば深まるほど、必然的に「能動的成長」の進捗は加速します。言い換えれば「能動的成長」とは「制御し得る成長」なのです。

 先刻「自然による成長」の対義語として私が用いた「意志による成長」という言葉は、そのままの意味で「人間による成長」に置き換えることが可能であるように思われます。即ち、我々の考え得る「成長」の形態には、大別して「自然的成長」と「人間的成長」の二つの種類が存在すると思われるのです。そして、これらの概念を更に「制御し得ない成長」と「制御し得る成長」の一対に置換することが出来ます。

 「制御し得ない成長」に就いては、我々は恩恵を期待し、祈念することしか出来ません。仮にそれが齎されない状況が続くのであれば、その息苦しい停滞に堪えるしかありません。けれども「制御し得る成長」に就いては、我々は自ら主体的に行動を選択することが出来ます。

 ここから導き出される帰結の一つは、我々が日常的に用いる「人間」という言葉の定義に関するものです。「人間」は「意志=能動=制御」という意味の列なりを内包しています。この場合の「人間」という単語は、純然たる生物学的区分の指標として用いられているのではありません。つまり霊長類の一部としての「ヒト」を指し示す為の符牒ではありません。「意志=能動=制御」という意味の列なりは、要するに「人間」という生物学的存在の本質的な特徴を表現しているのです。「人間的成長」とは単に「ヒトの成長」を意味しているのではなく、厳密には「人間的な仕方で為された成長」のことを指していると考えるべきです。従ってそれは安易に「人徳の涵養」と同一視されるべきものでもありません。「人間性」という言葉を、漠然たる「人柄の良さ」や「同情」や「寛容」といった概念と無秩序に結び付ける通俗的慣習に、安直な仕方で従属してはならないのです。

 「人間的」という概念は自らの定義の裡に「必然性=自然」に対する抵抗の意味を含んでいます。現実に対する屈服を峻拒し、それを変革する為の不自然な挑戦を企てること、自然の超越的命令に従わないこと、それこそが「人間性」の本領を構成する要素であると看做すべきです。従って「人間的成長」は、必然性に対する抵抗の及ぶ範囲を拡張することと同義です。決定論的な因果律を歪曲することの裡に「人間性」の本質は宿ります。不自然な行為に赴くことこそ「人間」の証であり、自然な本能の命令に従うことは「人間的退行」を意味します。「受動的成長」に総てを委ねる依存的な隷属は、こうした「人間性」の不自然な特質に対する拒絶に基づいているのです。