サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

恋することは愛することと重ならない 2

 「恋愛の自由化」及び「恋愛と結婚の一体化」という二つの社会的な趨勢が齎す現代的な困難は、様々な指標を通じて可視化されている。未婚率の上昇、離婚件数の増加、晩婚化、少子化核家族化といった社会的現象は、上記の二つの潮流の合理的な帰結である。

 「恋愛の自由化」は、言い換えれば「恋愛の自己責任化」である。誰でも意のままに、自分の好む異性(場合によっては同性)と性的な関係を、相互の合意に基づいて締結することが出来るということは、裏を返せば、他人と性的な合意を成立させることの出来ない人間への社会的な救済が撤廃されるということを含意している。従って、生得的な条件や後天的な努力を複合させて、他者を魅惑する技能を培うことに失敗した人間は、半永久的に「恋愛」の機会から疎外されることとなる。つまり、自由主義的な原則の導入によって「恋愛」は市場化され、格差社会化されるのである。魅力的な人間には恋愛の機会が集中的に与えられるが、魅力を持たない人間には一切、チャンスが訪れない。こうした不平等は自由主義の必然的な暗部であり、自由主義の原則を尊重する限り、こうした格差によって惹起される潜在的な不満は解消されない。

 更なる困難は「恋愛と結婚の一体化」という現代的な「神話」によって増幅される。「幸福な恋愛の帰結として幸福な結婚が存在する」という強力なイデオロギーが蔓延する社会において、恋愛の自由化が強力に推進されると、必然的に「結婚する人間」と「結婚しない人間」の二極化が顕在化する。魅力を持たない人間は「恋愛」のみならず「結婚」の機会からも疎外され、更に「結婚」と「生殖」との強力な法律的結合(未婚の父母に対する公的な支援が薄弱である現実は、暗黙裡に「生殖」を「結婚」と同一視していることの証明である)によって「生殖」の機会からも疎外される。極端な表現を用いるならば、恋愛の市場において魅力を示すことの出来ない人間は、間接的に「断種」されてしまうのである。要約すれば「恋愛の自由化」は、結果として「優生学的な淘汰」を齎すのだ。

 同時に「恋愛と結婚の一体化」というイデオロギーは、結婚という社会的制度そのものを空洞化する。恋愛感情が結婚を成立させ、正当化する最大の根拠であるならば、恋愛感情の死滅は結婚生活の破綻に直結する。「恋愛結婚」の推進は必然的に「離婚」及び「再婚」の増加を惹起するのである。何故なら、人間の感情は基本的に不安定で、恣意的な統制を受け付けず、当人の意図を離れて浮動するものであるからだ。「愛のない結婚は不幸である」という定式が社会的に共有されれば、「愛のない結婚」からの脱却は勇敢な美徳として称揚される。言い換えれば「恋愛の自由化」及び「恋愛と結婚の一体化」という社会的潮流は「結婚の短命化」に帰結するのである。

 しかしながら、短命化した「結婚」は果たして「結婚」の要件を満たすだろうか? 短期的な終焉を繰り返す「結婚」ならば、それは一過性の「恋愛」と構造において異ならない。従って「結婚」と「恋愛」との境界線は、法的な保護以外の差異を持たなくなる。そうなれば今度は、そもそも個人の自由な恋愛に法的な保障を附加する理由が疑問視されるようになるだろう。こうして「結婚」という社会的制度は、廃絶の刻限を迎える。我々は「終生の伴侶」という崇高な理念を放棄する。「恋愛の自由化」の最終的な帰結が「結婚の廃絶」であることは「コロラリー」(corollary)なのである。

 「結婚の廃絶」という帰結が、我々の社会に不利益を齎さないのであれば、このコロラリーに服属することは何ら問題ではない。人間は生涯の間に幾度も伴侶を交換し、場合によっては如何なる伴侶も持たずに死を迎えるという社会的慣習を獲得する。「永遠の愛」という神話は嘲笑され、恋愛感情の賞味期限は刻々と短縮されていくだろう。一旦「永遠」という理念を手放してしまえば、「一年間」の恋も「一分間」の恋も、本質的には同一であるからだ。

 言い換えれば、我々は他者との間に長期的な「共生」(symbiosis)の関係を構築する理由を加速度的に喪失していくだろう。選り好みする審美的な価値観ばかりが異様に発達し、尖鋭化することで、我々は必然的に「寛容」の美徳の倫理的価値を切り下げていくだろう。「共生」する能力の衰弱は、やがて配偶者のみならず、親子の間の紐帯にも影響を及ぼし、血縁の神話的な価値は暴落し、個人の「原子化」は極限まで亢進するだろう。究極的には、我々は「赤の他人」しか存在しない社会に生きることになるのである。「窓のないモナド」としての「個人」が、無感情に離合集散を繰り返す社会の完成である。だが、それは本当に人間の魂の望む未来図だろうか? 人間は「親密な関係」への欲望を根本的に棄却し得るだろうか?

 他者との「共生」を厭う根強い感情と同じくらい切実に、人間は「孤独」の寂寥を忌み嫌う。誰の援助も得られず、如何なる共感も望めず、万事を孤独の裡に進めて、時が満ちれば屍となって大地へ還るという生涯を、誰かが心の底から欲するとは思われないし、若しもそれを望む者がいたとすれば、その人間は寿命を待たずに自殺するだろう。そもそも、人間は養育に極めて厖大な時間と労力を要する生き物であり、生まれて直ぐに立ち上がれなくとも、数多の懇切な扶助に迎えられて命脈を繋ぐのが習いである。従って「共生」という理念は、当人が意識的な反出生主義者であろうとも、人間の生存の根幹を占めているのだと言える。「共生」を否定する言説を弄する者も、必ず「共生」の恩恵の下に、その言説を表明する能力と機会を享受しているのである。

 そもそも「恋愛の自由化」という社会的要求は、形骸化した親密さの代わりに、血の通った幸福な親密さを樹立しようと試みる感情に由来している筈である。従ってその極端な帰結が「共生の廃絶」に至るのならば、それは不合理な自殺を犯すことに等しいのであり、我々は何処かで方針を転換しなければならない。恐らく「恋愛の自由化」という趨勢は抑制し難い健全な要求であるから(厳密には、恋愛感情というのは本質的に自由なものであり、他律的な活動を行ない得ないものである)、我々が差し当たり再審に附すべき問題は「恋愛と結婚の一体化」という方針であろう。つまり、両者の混同が妥当な判断であるかどうかを再検討する必要が生じているのである。

 「恋愛結婚」というイデオロギーが活発に機能する社会では、必然的に「恋愛の自由化」は「結婚の自由化」を齎す。我々がその是非を議論すべきなのは、恐らく「恋愛の自由化」ではなく「結婚の自由化」に関してである。自立した人間が周囲の誰を好きになるか、という問題は専ら当人の主観的裁量に委ねられるべきで、他者が容喙する理由は存在しない。しかし、誰と結婚すべきかという問題に関しては、社会的な意見や統計的な傾向を考慮する必要がある。それは「恋愛」と「結婚」が本来、異質な原理に基づいた営為であるからだ。恋愛感情を懐く相手と、結婚する相手が見事に合致していなければ不自然であるという現代的な偏見を、我々は一旦解除しなければならない。別の言い方を試みるならば、我々は「愛情」という概念を、性的な「恋情」と混同する通俗的な謬見から解き放たれる必要があるのだ。

 本来、愛情という概念は多様な形態を選択し得る。あらゆる人間関係において、愛情は「共生を求める感情」として、その関係性に即した形式で発現し得る。しかし「結婚」という形態においては、「愛情」に「恋情」(性的な欲求)が含有されていることが必然であると考えられている。そうした信仰は恐らく「結婚」が「生殖」を前提として発達した制度であることに関連している。「生殖」を行なう為には「恋情」の媒介が不可欠である。つまり「結婚」という制度が「恋愛」との一体的運用を求められるのは、暗黙裡に「結婚」が「生殖の保全」という役割を期待されていることの反映なのである。

 「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的イデオロギーは、言い換えれば「結婚」という制度を「性交=生殖=養育」のプロセスの保全を目的として運用する為の思想的拘束である。従って「恋愛結婚」という現代的理想の呪縛を解除し、本来の趣旨である「共生」の理念を恢復する為には、「結婚」と「生殖」の不可避的な癒合を、任意の関係に改訂しなければならない。「生殖」を保全する為の「結婚」という制度設計は、既に破綻の危機に瀕している。若しも「結婚=生殖」の一体的運用を今後も維持するのならば、未婚率の上昇や離婚件数の増加という潮流は決して抑制されず、寧ろ激化の一途を辿るだろう。