夭折の幻想 三島由紀夫「春の雪」 2
三島由紀夫という作家は、その夥しい文学的遺産の総体を通じて常に「恋愛」或いは「愛慾」に関する犀利で精密な分析のメスを揮い続けた。しかし、それは彼が例えば「潮騒」という異色の作品において描き出されたような健全で素朴な「恋愛=結婚=育児」の三位一体、即ち「家庭」という宗教的な理念に対する純粋な信仰の持ち主であったことを意味しない。寧ろ三島にとって「恋愛」は、飽く迄も「婚姻」や「家庭」の原理に対する根源的な抵抗を含んだ営為として、その価値を是認されていたのではないかと思う。彼の描き出す恋愛の諸相が悉く反社会的な烙印を捺されて、悲劇的な結末へ向かって転落の一途を辿っていくように思われるのは、決して偶然の所産ではないのだ。それは「恋愛」という理念の根底に、古めかしい言葉を借りれば「不義密通」という禁断の性質が潜在していることの必然的な帰結なのである。
或る一組の男女が何らかの曖昧な心理的動機(それが如何に強烈な情熱によって駆動されていたとしても、人を愛する理由というものが本質的に曖昧模糊とした霞に似ている事実は動かない)に導かれて性的関係を持ち、やがて子を生して、家庭という複雑な揺籃を築き上げるという一連の過程は、様々な人間的虚飾に彩られていようとも、要約すれば動物的な本能の齎す凡庸な現象に過ぎない。それ自体が一つの驚嘆すべき「自然の神秘」であることは確かな事実だが、そうした「奇蹟」の美しさは別段、人類の手柄ではない。動物でも昆虫でも、内在的で不透明な衝迫に操られて交尾と生殖を重ねるという点では、人類と同格の存在である。そして人間が生物学的な次元において「死」という逃れ難い宿命を背負っている以上、類的な存続の為に無際限の「生殖」が要請されるのも、煎じ詰めれば凡庸な摂理であると言うしかない。人間は昆虫のように交尾して次々と子孫を殖やし、類的な存続、共同体の維持に汲々とする。そうした生物学的使命と、異性愛を基調とする普遍的な「家族主義」の世界的且つ歴史的な蔓延との間には、極めて自然で滑らかな「結合」の関係が介在している。
生殖は人間に限らず、総ての生命体に向けて予め課せられている生物学的使命であり、自然の側からのプリミティブな要求である。そして生殖の系譜を円滑に維持し、その不幸な途絶を防止する為に、人類は「異性愛=結婚=育児」という三位一体のイデオロギーに神聖な衣裳を纏わせ、それを普遍的な信仰の水準にまで高めた。現行の「結婚」という社会的制度が法的な庇護を授けようとする対象は、決して「夫婦」自体ではなく、また「夫婦間の相互扶助」そのものでもない。「結婚」が庇護するのは飽く迄も「生殖」であり「子孫の繁栄」である。何故なら、生殖以外に共同体の存続を保証する実体的で物理的な根拠は他に存在しないからだ。「夫婦の相互扶助」が重んじられるのは、それが最終的に「生殖」の円滑な実行に資する条件となるからである。かつての日本で「石女」であることが離縁の正当な理由として肯定されたり、現在でもセックスレスが法定離婚事由として認められたりすることを徴すれば、「結婚」の本質的な目的が「生殖」に存すると看做すことは、強ち的外れな見解であるとは言い難いように思われる。もっと根源的な疑義を探すならば、何故「結婚」が「両性の合意」に根拠を持つと憲法によって規定されているのか、という問題が直ちに浮上してくる。世界史的な事実を鑑みても、同性婚が社会による全面的な承認を得たのは、二十一世紀初頭のオランダを嚆矢としている。人類生誕から現代に至るまで閲した厖大な時間を思えば、同性婚という制度への肯定の歴史は未だ、瞬きほどの長さしか有していないのである。その根本的な要因が、性的少数者に対する差別的な偏見以前に「生殖の不可能性」という生物学的な事実に依拠しているであろうことは想像に難くない。
私自身を含めて、人間は必ずしも「結婚」という制度の歴史的な意義や目的を十全に理解した上で、婚姻の手続きに踏み切る訳ではない。特に現代においては「恋愛=結婚」という等式が、素朴な感情に基づいて信奉されることが一般的であり、互いに恋する者たちが、その愛情の神話的な誠実さを立証する為に、恋愛の発展的な形態として「結婚」という法的庇護を選択するという事例が多い。しかし、単なる個人的な「恋情」に国家が態々、公共的な「免状」を発行しなければならない理由は決して大きくない。換言すれば「結婚」の本義は飽く迄も個人の私的な愛情云々ではなく「生殖」の庇護であり、類的な「後継者」たちの安定的な再生産なのである。そして「結婚」という制度へ向かって滑らかに連結される種類の「両性の合意」は、必ずしも「恋愛」の情熱を伴う訳ではない。家長の選んだ相手と婚姻することが当然であった往古の時代を想起してみれば、現代に暮らす我々が素朴に信じ切っている「恋愛=結婚」の等式の時代的な相対性は歴然としている。「恋愛」と「結婚」との間に滑らかな接続を見出す考え方は、或る時代と地域に固有の相対的な「思想」に過ぎないのだ。
それでは「恋愛」の本質とは何か。或る漠然とした個人的な「好悪」が、はっきりと「恋愛」という名称に相応しい形態を備えるとき、そこには如何なる精神的構造と秩序が形成されているのだろうか?
そのとき清顕はたしかに忘我を知ったが、さりとて自分の美しさを忘れていたわけではない。自分の美しさと聡子の美しさが、公平に等しなみに眺められる地点からは、きっとこのとき、お互いの美が水銀のように融け合うのが見られたにちがいない。拒むような、いらいらした、とげとげしたものは、あれは美とは関係のない性質であり、孤絶した個体という盲信は、肉体にではなくて、精神にだけ宿りがちな病気だとさとるのであった。(『春の雪』新潮文庫 p.113)
恋愛の情熱は常に「孤絶した個体という盲信」に対する抵抗、或いは叛意として定義され得る。換言すれば「自他の境界線の抹殺」に対する熱烈な志向性が、恋愛という心理的営為の本質なのである。こうした情熱が必ずしも「結婚」という一つの社会的な関係の円滑な運営に不可欠であるとは言い難いことは、経験的な事実である。夫婦は共通の目的に向かって相互に協力する義務を負っているが、それは両者の個体的な輪郭の融合を意味しない。寧ろ銘々が自立を果たして、独立した社会的な個人として相互に協同するという形態こそ、尊重されるべき理想の姿である。しかし、恋愛の情熱は個体の独立性を尊重しない。恋する者が望むのは飽く迄も「存在の融合」の一事に尽きている。
けれども、独立した個人が抱懐する「一体化」への情熱的な憧憬は常に挫折の宿命を科せられている。どれだけ深甚な交わりを重ねようとも、人間が他者の内奥の一切を完全に掌握することは、現実的に考えて不可能である。唯一可能なのは、他者の内奥の一切を完全に掌握したと、幻想的な仕方で盲信することだけである。