サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

重なり合う私たちの、分かち合う盲目 三島由紀夫「白鳥」

 三島由紀夫の短篇小説「白鳥」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 この小説もまた「接吻」や「伝説」と同様に、恋愛の渦中にある男女の繊細な心理の動きを的確に捉え、省かれた筆致でさらさらと描き出す種類の小品である。例えば傑作「金閣寺」における凄絶な観念的苦闘や、或いは「憂国」における「性愛」と「死」との緊密な融合など、骨太で本格的な主題への果敢な挑戦を、こうした系列の掌編の裡に期待することは的外れである。しかし、丁寧な木彫の細部を想わせる緻密な心理的分析の連なりは、三島の作品を成り立たせる最も基礎的な技巧を成しており、従ってこれらの掌編に顕れた細密な技芸の構造を軽んじるのは、三島の読者が択ぶべき態度ではないだろう。

 邦子と高原との純情な交流の一幕を淡々と描きながら、時折挿入される些細な心理的動向を軽やかに抄って簡潔な言葉に置き換えてみせる三島の才覚は、彼が若年の頃に愛読したラディゲに象徴されるフランスの心理小説の遺産によって養われ、鍛えられたものであると思われる(三島自身、ラディゲへの偏愛を雄弁に告白している)。そのような心理的解釈の実質的な妥当性の当否は措くとして、恐らく俊敏な機智を欠いては断じて為し得ない個人の想念や感情に関する「漁撈」の積み重ねが、彼の作品に華麗な人為的風合いを賦与していることは事実だろう。彼の鋭利な筆鋒は、老獪な翡翠のように、人間の操るパブリックな「建前」と、当人にさえ意識されない抑圧された「本音」との段階的な断層を見逃さず、絶えずその間隙へ巧みに身を躍り込ませている。一つ一つ塗り重ねられていく平淡な描写の一つ一つが、絶えず人間の心理的な現象の比喩を成している。些細な身動き、表情、視線、そういったものの総てが、純然たる唯物論的な現象として語られることを峻拒しているのだ。

 ――居合わせた会員はこのお転婆なお嬢さんは青年と一つ馬に相乗りをしていたのかしらと怪訝な顔をした。いつの間にか高原と邦子には白い馬が二頭いたような気がするのだった。二人とも栗毛の馬の存在はすっかり忘れているのだった。

 恋人同士というものはいつでも栗毛の馬の存在を忘れてしまうものなのである。(「白鳥」『女神』新潮文庫 pp.179-180)

 末尾に置かれた思わせぶりな警句のような一節は、具体的には如何なる消息に就いて触れているのだろうか。巻末の解説を担当した批評家の磯田光一は、無垢な情熱を象徴する「純白」のイメージに仮託して、恋人たちの意識が主観的な幻想しか捉えなくなっているのだと簡潔に言い切っている。つまり「栗毛の馬」は卑俗な現実の暗喩であるという訳だ。しかし、主観的幻想と客観的現実との相剋を「白馬」と「栗毛」の色彩的な対照性に類比させるというのは、如何にも凡庸な技巧ではないだろうか。

 例えば、こんな解釈は如何だろうか。恋愛という情熱は、一般的には「融合」の幻想であり、本来ならば相互に異質であるべき個体が、共通の同一性の裡に揃って溶け込むという心理的体験を意味している。それが客観的には単なる幻想に過ぎずとも、固より人間の感情の一つずつに精確に対応する外界の事物を措定することなど不可能である。当人同士がそのように信じ得るのならば、両者の精神的融合は成立しているのである。少なくとも恋愛の情熱が爛熟の季節を迎えている間は、恋人たちは自他の境界線を容易く見失い、自己の所有に帰するものと、相手の所有に帰するものとを安直に混同し得る状態に置かれている。彼らは極めて滑らかに「自他」の存在を重ね合わせ、そうした主観的な同一視の及ぶ範囲から逸脱するものを自然に捨象する。その意味では、確かに磯田光一の論じるように「主観/客観」との「断層」が、作品の主題を成していると言える。尤も「白鳥」に限らずとも、三島の作品における心理的な「漁撈」の作業は悉く、こうした「断層」の精緻な把握と解析に基づいて営まれている。末尾の軽妙な箴言は要するに、自他の共通項ばかりに着眼して、相互に異質な部分を主観的な錯覚の下に排除する恋人たちの甘美な習慣を、柔和な口調で揶揄しているのである。彼らの盲目的な閉鎖性は、殊更に激越な批難に値するような類の謬見ではない。誰にでも見憶えのある、単純で微笑ましい錯覚ではないか。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫