サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「肉慾」の蔑視 三島由紀夫「哲学」

 三島由紀夫の短篇小説「哲学」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 古今東西を問わず、人間関係の苦悩というものは地上に途絶えたことがなく、況してや複雑な欲望の混淆する性愛の紐帯に就いては、多くの人間が様々な形態の煩悶や悲劇に苦しめられ、場合によっては自死さえも選択してしまう。誰かを好きになるという心理的な現象そのものは頗る凡庸で、聊かも突飛な感情ではないのに、それを素直に受け容れて、その密かな願望を満たす為に合理的な行動を積み重ねるという当たり前の経路が、巧く辿れない人もいる。

 この作品に登場する宮川という名の若い哲学者(未だ学生の身分ではあるが)は、正に自己の内面に生起する原始的な感情の取り扱いに関して、恐ろしく拙劣な技倆しか持ち合わせていない残念な種族の一員である。彼は謹厳実直を絵に描いたような学究の生活に日月を費やし、如何なる野蛮な感情にも惑わされることなく、純一な規則を只管に遵守して生きている。宮川の精神を支配する「ニル・アドミラリ」(「無感動」を意味するラテン語の成句)の鉄則は、明らかに古代ギリシア以来の倫理学的伝統に由来している。知性や意志を重んじて、肉体的な欲望や享楽を賤視する古来の道徳的理念が、所謂「哲学」の分野の基底に深々と埋め込まれていることは周知の事実である。

 超越的な絶対者を渇仰しながらも、例えばプラトンのように専ら理智の働きに頼って「イデア」を捉えようとする観照的な態度には断固として抗い続けた三島にとって、宮川のような蒼白い哲学者の主知的な生き方は承服し難く、冷笑的な揶揄の対象であったに違いない。アリストテレスの称揚する「テオリア」(theoria)の理念に奉仕する若い学究の精神が、若い女学生への恋慕によって瞬く間に角砂糖の如く瓦解していく様子を、三島の筆致は頗る皮肉な諧謔のニュアンスを交えて描いている。

 超越的な「美の形相」としての「金閣」との観念的対決を描いた代表作「金閣寺」においても、三島は語り手である寺僧の口を借りて、次のように述懐している。

 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して、私の目に醜く感じられる障害を取除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。(『金閣寺新潮文庫 p.33)

 この一節は、三島の精神に内在する鮮明な「ネオプラトニズム」の性向を示唆しているように思われる。彼は感覚的認識を超越した「美の実相」には関心を持たず、ただ絶対的で圧倒的な「美」へ肉体的な感官を経由して到達することを終生、熱望し続けた。言い換えれば、彼は極めて明晰な頭脳の持ち主であったにも拘らず、純然たる主知的な「観照」だけで心から満足し得る種族の人間ではなく、その欲望の焦点は絶えず感覚的な享楽の深淵に宛がわれていたのである。

 尤も、貧弱な肉体と透徹した知性によって構成された彼の若年期は、宮川のような人物の内面的屈折に類似した心理的要素を多量に含んでいたのではないかと推察される。「金閣寺」を一つの重要な転換点として、彼は「文学=観照」から「政治=実践」へ人生の重心を移し替えた。芸術的な「観照」だけに留まらぬ生活の拡張を志し、浮世離れした反社会的な耽美主義の閉域への逼塞を拒んで、肉体の鍛錬や政治的活動など、極めて現世的な分野へ積極的に足を踏み入れていくことを選択したのだ。

 東大法学部の勤勉な学生であった三島は、小説家として立身することを望んで大蔵省を退職したときに、自らの抑え難い欲望の形式を明瞭に痛感していたのではないだろうか。無味乾燥な主知主義が、自己の魂に相応しい流儀ではないことを、否が応でも認めざるを得なくなったのではないか。何れ滅び去る有限な存在としての「肉体」に荷担すること、それが生涯の途次において三島が選び取った進路であった。けれども、彼が「永遠」に憧れなかったと言い切れるだろうか。逆説的な方法で、彼は有限の生命を永久化しようと企てた。自らの意志に基づいて「滅亡」を選択し、怠惰な時間の流れを堰き止めることで、有限の肉体を無時間的な偶像に昇華させるという錯綜した理路を、三島は晩年の「憂国」や「豊饒の海」において幾度も明示し、細々と叙述してみせた。それは結局のところ、肉体の有限性を愛さない彼の主知的な性質を裏書きするものではないか。自殺は、有限の生命の内在的原理に殉じる謙虚な行為ではなく、寧ろ「不治の病」であるところの「可死的肉体」の宿命を、意図的に統御しようと試みる強権的な「精神」の反映ではないか。哲学者の自殺は、単なる敗北ではない。それは「肉体=感官=現象」に対する「精神」の絶対的優越を証明する、最も極端で過激な方途なのである。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫