サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

紺碧の誘惑 三島由紀夫「蝶々」

 三島由紀夫の短篇小説「蝶々」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品で扱われる主題もまた、「女神」という短篇の集成に収められている他の小説と同様に、或る男女の恋愛の様相であるが、極限まで切り詰められた簡素な略画のように見える「白鳥」や「哲学」とは異なり、この作品には重層的な奥行きが備わっている。「蝶々」において描かれる享楽的な男の心理には、複雑な陰翳が刻まれており、その背景には絶えず「紺碧の海」という強迫的なイメージが揺曳している。

 ふと清原は昔愛した「ある晴れた日」の旋律を幻に聴いたのである。自在に幻影をよびおこすこの魔術師のような優れた歌姫の、あやかしめいた能力の聯想だろうか。「ある晴れた日」をこの人がうたうと、海の色がまざまざとうかんで来たものだ。書割の貧しい海の上へ、本当の海の霊が下りて来たのだ。お蝶夫人の瞳はもう日本の女のように黒くはない。来る日も来る日も海を見詰めて暮らしたので、瞳まで青く染められてしまったものらしい。そして今しも何かの予感のように、彼女の顔までが海の色に染められる終幕の悲劇を前に、視線はうっとりと真昼の海のかがやきへ投げられている。悲劇を載せてくる船。それは蝶々さんの真青に澄んだ瞳が招き寄せたのだ。彼女が待っていたのはピンカートンではない。実は悲劇だ。死だ。彼女が待ちこがれていたものは。……(「蝶々」『女神』新潮文庫 p.193)

 この一節から、あの名高い「真夏の死」の不吉な風景を想起するのは、三島の読者にとっては自然な反応であると言えるだろう。或いは「岬にての物語」に登場する一組の薄幸な男女を眼裏へ想い描いてみてもいい。「天人五衰」の安永透もまた、港湾の信号所に詰めて、望遠鏡越しの海景を只管に眺め続ける生活を送っていた。三島にとって「紺碧の海」というイメージは特殊な含意を、つまり、来るべき破局と滅亡の予兆という終末論的な含意を孕んでいる。一たび、絶望的な破綻が到来すれば、地上の秩序は悉く拉がれ蹂躙されて、理性も道徳も一挙に息絶えてしまうだろう。それは一般的には忌まわしく禍々しい事態の顕現であるが、少なくとも三島の内在的論理は、そのような潰滅の風景に逆説的な「恩寵」を読み取っている。英雄的な戦死、退屈な日常性の中断、破滅と引き換えに購われる久遠の栄光、これらの観念は総て、三島の根源的な欲望を充足させる力を備えている。

 こうした終末論的発想と絶えざる「待機」の姿勢は、戦時下の青春を通じて育まれ、三島の精神的な元型として鋳造されたものである。無限に循環する同一的な「時間」のイメージは、華々しい物語に憧れる三島の感受性にとっては許し難い怨敵なのだ。無限に繰り返される円環的な「時間」の流れを断ち切ること、それによって「時間」を超越し、涅槃を想わせる「永遠」の位相へ移行すること、無味乾燥な現実を陰惨で情熱的な悲劇に置換すること、これらの特異な志向性は、三島の霊魂に対する拭い難い呪縛として機能し続けたのである。

 又しても清原は、彼自身も理会しがたい熱情を以て彼女の死を考える。彼女は暁闇に世を去った。夜もすがら待ちこがれて、もはや確実な絶望とそれだけに刻一刻凝結して宝石のように見事に結晶した無垢の希望――それは絶望よりも一層確実な――のいたましい歓びの裡に、明けそめて来た海の最初の微光を彼女もまた見たであろう。こうして訪れたものが死であろうと、それは成就の狂おしい喜びをしか齎らさない。彼岸はしらず、この世には成就しか存在しないから。(「蝶々」『女神』新潮文庫 p.205)

 「死」と分かち難く強固に癒着した「海」のイメージは、三島の精神を強迫的に支配している。「死」は肉体的な桎梏、地上的な規範からの解放を伴うがゆえに「恩寵」として享受される。その「待機」の姿勢に堪え難い倦怠を覚えたときに、人は自死を選択するのだろう。けれども、単なる物理的で個体的な死は、恐らく彼の精神的な飢渇を救済しない。もっと集合的な死、共同の破滅が介在しなければ、彼の魂は彼岸の安息を玩味することが出来ないのだ。偶発的で無意味な「死」ではなく、強力な「宿命」に支配された結果としての「死」を経験しない限り、彼の地上的な虚無は解消されない。一体、何が彼をそんなに慢性的な虚無の裡へ拘束するのか? 此岸において受肉することを「魂の死」と看做す古代の宗教的伝統が、そのような虚無を彼の内面に供給するのだろうか?

 死ぬことは、巨大な同一性への回帰を暗示している。超越的な絶対者の懐に抱擁されることを意味している。そのように強く切実に希うならば、何故さっさと自らの手で逝かないのか。恐らく彼は何らかの超越的な価値に総身を貫かれることを求めている。無意味な「死」は、彼の希望する救済の方法に合致しない。彼は避け難い悲劇的な「宿命」に強いられて死ぬことを必要としているのだ。それならば、彼に許されるのは「宿命」の強迫的な到来を待ち受けることだけである。「恩寵」の如く下賜されるであろう宿命的な「死」への期待に殉じるしかないのだ。

 無意味で偶然的な生存、それは三島の最も忌み嫌った存在の形式であった。彼は自らの存在を英雄的な悲劇の裡に閉じ込めることを望んだ。無限に反復する怠惰な「時間」の流れを拒み、明確な発端と帰結に縁取られた一篇の壮麗な「物語」へ自らの肉体を象嵌すること、それだけが彼の情熱の標的であった。

 しかし「蝶々」という作品の潜在的な意図を、このような「破滅」への終末論的な欲望だけで説明するのは適切な振舞いだと言えるだろうか。清原は華子へ宛てた空想的な手紙を通じて、実在しない記憶を捏造し、その共有を暗黙裡に要求した。

「戦争中、わたくし、大磯にいたわ。海ばかり見ていたわ。海を見すぎて疲れて気持がわるくなるまで見ていたわ。ただ見ていただけ。わたくしは、蝶々さんのように待たなかったわ。ええ、何も待たなかったわ。

 それをお訊きになりたかったのでしょう、あのお手紙。よくわかりましたの。御返事さし上げなかったのもわかっていただけて? 本当にわかっていただけて?

 でも……わたくし」――そこで音楽は終ろうとした。「もっと何か待ったものがあるんだわ」(「蝶々」『女神』新潮文庫 p.212)

 隔てられた恋人との再会への期待と、地上的な規範を破壊する「破局」への期待が、巧みに縫合され、類比される。思うに任せない錯綜した関係性の網目に囚われて、彼らは「紺碧の海」の誘惑に絆される。何故、総てが夢想の実現を阻むのだろうか? 痛切な悔恨が一層、世界の終幕を劇しく希求させる。三島は如何なる「永遠」を望んだのだろうか。此岸を自ら去り、現世の秩序を乱暴に踏み躙って、彼が手に入れようと欲した「絶対者」とは一体、何者だったのだろうか。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫