推薦人「サラダ坊主」の前口上
三島由紀夫の遺した夥しい数の小説を、今でも熱心に読み続けている人口がどれくらい存在するのか、その実数を審らかにする手段を私は持ち合わせていません。物故した作家としては例外的なほど、現在でも過半数の作品が現役の文庫に収められて、誰でも容易く入手し得る環境が整備されていることは驚くべきことですが、その恵まれた条件を活かして、彼の作品に果てしなく深入りしている読者は、恐らく現代日本社会の多数派ではないでしょう。
戦後の日本文学を代表する作家として、ノーベル文学賞の候補にも挙げられ、華々しい名声に恵まれながら、奇矯な後半生と犯罪的な末期の為に社会的な誹謗と嘲笑の対象に据えられ、その作品に関しても、人工的で華美で、具体的な実質を伴わない「壮麗な虚飾」のように扱われ、侮蔑されることの多い三島由紀夫という作家の複雑な評価は、恐らく彼の存在の黙殺し難い巨大な威容を暗示しているのではないかと思われます。「楯の会」の活動や自衛隊への体験入隊、剣道への傾倒、そして「憂国」における切腹へのフェティシズムと、その常軌を逸した再現であるかのような市谷駐屯地での割腹自殺など、社会の一般的な基準に照らせば「異常」と思われる類の行動が目立ったことも、彼の輝かしい声価に対する致命的な毀損を齎した要因であると言えるでしょう。
また、作品そのものに関しても、その観念的な文体、現代の日本人の平均的な読解力では直ぐに振り落とされてしまうような語彙と措辞も、新たな読者の爆発的な獲得を妨げる要因となっているのではないかと考えられます。代表作である「金閣寺」にしても、例えば柏木の披露する難解で逆説的な弁舌や、女の乳房が「金閣」に変貌するといった奇妙な認識の記述は、初心な読者の生理的嫌悪を煽りかねないものです。敷居の低さから「潮騒」を推薦する方もおられますが、あれは却って三島の文業における異端の部類に属するもので、あの晴朗な純愛の風景を鵜呑みにして「金閣寺」や「禁色」に手を出せば、心に火傷を負うような事態に陥りかねません。「潮騒」の健康な性愛は、三島の憧れでなければ、寧ろ皮肉な悪意の賜物なのです。
或いは、三島由紀夫に固有の力み返ったロマンティシズム、聊かも甘美ではなく寧ろ残忍で悲劇的であるような倒錯的ロマンティシズムの大仰な性質に、付き合い切れない臭味を感じる読者もおられるでしょう。見方によっては、彼の文学は些末な事柄を大袈裟な苦悩の対象に祀り上げるパセティックな事大主義の権化であると言えます。「金閣寺」は昭和の史実に取材しながら、若い寺僧が濃密な観念的格闘の末に鹿苑寺金閣へ放火する過程を描いた作品ですが、そこで綿々と縷説される寺僧の煩悶の一語ずつに、到底附合い難い退嬰的な不毛を感じてしまえば、あの傑作は単なる陰鬱な架空の手記に過ぎないということになります。
このように、敷居の高さを計え上げれば切りがないように聞こえますが、誰にとっても初見で馴染み易い世界ならば、その奥行きは自ずと限られているということになるでしょう。三島の文学における特殊な性質は、その抱え込んでいる世界の稀有な独自性の証明に他ならないのです。勿論、排他的な独自性がそれだけで価値を帯びると強弁する積りはありません。若しも私たちの暮らす日常と地続きの価値観だけが、芸術の審美的な基準を左右するのならば、わざわざ芸術に触れて、見慣れた風景の焼き直しを辿り直す必要は稀薄であると言えるでしょう。その場所でしか手に入らないものや、味わうことの出来ない風景との邂逅を期待して、書物を繙くのが世の中の習いであるならば、三島由紀夫の作り出した特異な世界を、その奇矯な性質ゆえに毛嫌いして無条件に斥けるのは無益な振舞いであると言えます。
未だ三島由紀夫の主要な小説を読破するという個人的計画は達成の暁を迎えていませんが、私の独断と偏見に基づいて、下記の通り幾つかの作品を推薦図書として挙げさせて頂きます。
①「金閣寺」(『金閣寺』新潮文庫)
三島由紀夫の遺した作品の中で最も著名であると同時に、明確な主題、精緻な文体、緊密な構成によって織り上げられた紛れもない独創的傑作。
この作品の題材は一九五〇年に起きた金閣寺放火事件に求められているが、三島の紡ぎ出した「金閣寺」の物語は、客観的な史実など歯牙にも掛けていない。彼は事実の精密な再現や解剖に情熱を燃やしたのではなく、元来三島由紀夫という人物の精神に巣食っていた積年の主題に相応しい恰好の事実を欲したのである。素晴らしい原料を手に入れて、持ち前の文学的技倆を存分に発揮した三島の独自な美学は、史実の備えている禍々しい暗鬱な気配を借景として、類例のない絶巓に達している。
語り手である寺僧の溝口は、現実の金閣よりも想像の中で極限まで美化された金閣の方を本来的な実在として信仰するというプラトニックな倒錯を患っている。現実の金閣は何らかの理由で本来の絶対的な美しさを秘匿していると看做されるのだ。こうした発想は一般に、主観的な思い込みの方が客観的な事実に基づいて修正されるものだが、溝口の堅固な筋金入りのプラトニズムは、そうした通俗的解釈を頑として峻拒している。こうした思考の形式にとって避け難い最大の難点は、感覚的な事実が悉く色褪せて見えることだ。この作品において描かれる性的不能は、イデアとしての美しさに恋焦がれる余り、現実の肉体的な美しさが一種の「劣化」として感じられるという絡繰に基づいて喚起されている。溝口の友人である柏木は、美という観念を侮蔑し冒瀆することによって不能からの恢復を勝ち得るが、溝口の側には、柏木ほどの野蛮な覚悟が容易には備わらない。
金閣寺への放火という最も重要で劇的な主題に就いては、多様な解釈が可能であろうと思われる。柏木と同じ方針に基づいて、いわば「美を怨敵と看做す」ことによって現実の感覚的で現象的な人生に参与しようと試みる意志の産物であるとも言えるし、現象としては不完全な金閣の美を完全なものにする為に、その地上的な実体を焼き払ってイデアとしての金閣に還元しようと企てたのだと捉えることも出来る。私見では、前者の論理の方が、作品の構造として平仄が合っているように思えるが、どうだろうか。若しも溝口が絶対的な美の具現を望んで放火したならば、彼は焼亡する金閣と共に死ぬべきではないだろうか。彼が作品の末尾で「生きよう」と呟くのは、到達し難い究竟頂の齎した「絶望」の反映であるかも知れない。事実、溝口は犯行の過程で不意に「この火に包まれて究竟頂で死のうという考え」(p.327)に囚われるのである。にも拘らず、決して開かぬ究竟頂の扉の為に、彼は美のイデアから拒絶されているという認識を持ち、現象界における実存の側へ復帰する。プラトンは生きながらイデアへ到達することの不可能性を「パイドン」において示唆したが、この究竟頂の経験は、たとえ死んだとしてもイデアへ到達することは望み得ないという絶望的な真実を暗黙裡に告げているように思われる。それはかつて柏木が語った言葉を借りるならば「仮象が実相に結びつこうとする迷蒙」(p.130)によって惹起された衝迫なのだ。
こうした「超越」の論理に関連する主題は、三島の文学を貫く重要で過激な基調音である。煎じ詰めれば、絶えざる夭折への憧れも、悲劇的な宿命への期待も、こうした「仮象」と「実相」のダイナミズムに由来している。幾ら蒼穹に憧れても決して自力では羽搏き得ない肉体を強いられた人間の苦衷を、これほど熱心に追究する筋金入りのロマンティストは最早、稀少な存在である。
三島由紀夫の抱え込んだ宿命的な欲望の形態を、血腥い情事の幻想の裡に彫り込んだ「凝縮」の逸品。
「憂国」という小説を、国粋主義や右翼的な精神と結び付けるのは無益な誤解である。登場する若く美しい夫婦の壮烈な自裁は、政治的な憂悶とは無関係であり、重要なのは「大義」の庇護を仰ぎながら、己の生涯を一つの「宿命」に高めることである。主義主張の内実など、各自の趣味に合うものを選べばそれでいい。彼らの悲劇的な末期が「宿命」の恩寵に照らされて、時間を超越した一個の「作品」として昇華されるのならば、つまり、彼らが絶対的で超越的な権威に「強いられて」死ぬのであれば、具体的な理由に関わらず、三島の野心と欲望は十全に充たされるのである。
死ぬことが恩寵であるという教義は、三島の信奉する独特な実存的思想の枢要を成すものである。その理由の一つは、死が「老醜」という悪しき生理的現実から美しい若者を救済するからである。三島にとって「美」は最も重要な価値的規範であり、彼の野心は絶えず「美との合一」という不可能な欲望に深々と結び付いている。言い換えれば、三島にとって「男女の性愛」は美しくなければ意味がないのである。
永続性に対する不信、つまり「時間」の齎す避け難い「腐蝕」と「風化」の作用、もっと端的に言えば「時間」という無限性への嫌悪、これらの要素は、三島の演劇的な欲望を析出する素地の役目を担っている。言い換えれば、彼は「時間」の無意味な持続、無際限な虚無の広がりを忌み嫌っているのである。彼は「物語」のように明確な、凝縮された「時間」の到来を絶えず欲していた。性交という一個の肉体的で官能的な営為は、それ自体では巷間に有り触れていて、特権的な意義を持ち得ない。単なる肉体の交わりを比類無い審美的価値にまで高める為には、それを一つの崇高な「物語」として凝縮する必要がある。「物語」を生むという行為は、要するに「時間」に「価値」を与えることと同義だ。だからこそ三島は、若い軍人とその妻の官能的な営為に特権的な価値を、つまり抗い難い「大義」を賦与する段取りを組み立てた。彼らの心中は一個の崇高な「物語」に昇華された。その瞬間に訪れる劇しい歓喜は、無限に持続する「仏教的な時間」の日常性に埋没している限り、絶対に獲得し得ない感情の形態である。そして、無際限な時間の持続を一つの「物語」に凝縮する方法として「死」は最良の明快な選択肢である。尤も、三島は「死」に関しても、それが無意味な終焉であることを望まなかった。何らかの劇的な意味を充填しない限り、肉体的な死は肉体的な交わりと同様に、凡庸な生物学的現象に過ぎない。
③「真夏の死」(『真夏の死』新潮文庫)
実際に起きた悲惨な事件に取材して、日常の幸福と引き換えに「特別な悲劇」の到来を希求する女の危険な心情を描いた、切れ味鋭い技巧の光る佳品。
海浜における不幸な事故で二人の子供を失った女性が、静かな時間の堆積に堪えて徐々に希望を恢復していく物語のように見せかけながら、末尾の数行で不吉な反転を示す三島の怜悧な技巧は、作者の抱え込んだ特異な野心を一種の怪談のように漂わせ、行間に滲ませている。本来ならば誰にとっても忌避すべき凄絶な心の傷痍を負い、深く苦しみながらも、その快癒の過程で平穏な日常に「物足りなさ」を覚えるという朝子の心理的推移は、一般論としては明らかに常軌を逸した狂気の香りを孕んでいると判定されるべきものだろう。しかし、この奇怪な転回は如何にも三島的な主題であり、単なる精神的傷痍からの温もりに満ちた恢復などは、風変わりな作者の創造的な意欲を決して喚起しなかっただろうと思われる。
一般に「幸福」という観念は、不快な事件の起こらない平穏な「日常」の裡に胚胎すると信じられている。劇しい喜怒哀楽の目紛しい変転は、恐らく「幸福」という即自的な充溢を決して容認しないに違いない。三島の演劇的欲望は、何事も起こらない平常の「幸福」という観念を断固たる態度で排撃する。劇的な「物語」から見限られた、退屈極まりない無為の時間の累積、その平淡な薄味を賞玩するには、三島の感受性は余りに貪婪で、その嗜好は濃厚な旨みに餓えていたのだろう。「悲劇的な宿命に襲われた女」という暗鬱な物語の主役として世人の注目を集める為ならば、朝子は惨たらしい水難事故の再来すらも辞さないのである。彼女の欲望は、世俗的な「幸福」の通念と絶縁している。しかもその姿は、戦後の社会に抛り出された三島自身の似せ絵のようにも思われる。つまり「物語」の息絶えた世界に向かって、腕尽くで「物語」や「宿命」の巨大な彫像を創り出すこと、平俗で単調な時間を凝縮し、そこに突拍子もない悲惨の種子を植え付けて、怪奇な幻想を炎上させること、頗る端的な表現を用いるならば「退屈を破壊すること」、これらの使命に駆り立てられた作家の胸底と、朝子の不穏な心情は明瞭に酷似している。
④「午後の曳航」(『午後の曳航』新潮文庫)
洋上の孤独な英雄たる己を脱ぎ捨てて、陸上の凡俗な保守的風習に阿ろうとした男の「堕落」を、酷薄たる少年たちの集団が処刑する不吉で精緻な傑作。
「金閣寺」においてプラトニックな青春の自画像を焼き捨て、その後の「鏡子の家」において「戦後的実存」の複数的な類型を検討した三島が、持ち前の審美的論理からの脱却を試みていたことは、例えば日録の形式を取った気儘な批評の集成である「裸体と衣裳」などを読めば明晰に看取される年譜的事実である。その象徴が「結婚」であることは論を俟たない。三島にとって「恋愛」は「物語」で有り得るが、少なくとも「幸福な結婚」は如何なる「物語」の成立も約束しない。作中に夫婦を登場させる場合であっても、そこに何らかの「不義密通」に類する情熱が介在しなければ、「結婚」は「物語」としての演劇的性質を獲得することが出来ないのだ。何故なら「結婚」は、原理的に「永続性」という時間的観念と不可分の緊密な紐帯を宿した制度であるからだ。そこに日常的な時間を超越する輝かしい契機を期待することは出来ない。若しも姦通による擾乱を導入しないのであれば、例えば「憂国」の軍人夫婦のように「大義」の威光を拝借して凄絶な自裁を選び取り、無際限に反復される単調な「時間」の累積を絶ち切る必要がある。
塚崎竜二の結婚は、作者である三島が少年期から保持し続けてきた壮麗な演劇的欲望の終焉を暗示する。彼は「物語」への絶えざる憧憬を扼殺し、無為の時間に堪えて「老醜」さえ受け容れることを選択し、船乗りの生活を捨てて陸に上がる。それを処刑する少年たちが、奇態な演劇的欲望の熱烈な信奉者であることは論を俟たない。そのように考えれば、この「午後の曳航」という作品は「鏡子の家」において有能なニヒリストである杉本清一郎を生き延びさせた三島の「成熟」に対する決意を断罪するものであると定義し得るかも知れない。結局のところ、三島の度し難い演劇的欲望は、英雄的な野心の挫折を承諾しなかった。退屈な日常への安住が、三島由紀夫という人物の独創性を根底から破壊するものであったことも、その一因ではないかと推測される。
⑤「豊饒の海」(『豊饒の海』新潮文庫)
豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)
- 作者: 三島由紀夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1977/12/02
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言わずと知れた三島の遺作であり、それまでの文学的経歴の総てを傾注した畢生の大作。
三島がその生涯を通じて最も巨大な「物語」の構築に着手するに当たって、「輪廻転生」という仏教的な観念を全篇の骨格に採用した理由は幾つも考えられるだろう。「転生」という空想的な観念が、松枝清顕に始まる四人の主役の実存に、崇高な「宿命」の威光を授ける効果を狙ったのかも知れない。尤も、その壮麗な野心は、第四巻の「天人五衰」において、安永透の自裁の失敗という形で挫折し、剰え松枝清顕の実在さえ、月修寺の門跡となった老境の綾倉聡子によって否認されることとなる。あれほどの莫大な芸術的労力を費やし、長い年月を投じて構築された物語の結末が「物語の否認」に帰結するという皮肉な展開を、作者が事前に予見していたかどうかは疑わしい。
「物語」とは「時間の凝縮」であり、演劇的時間とは煎じ詰めれば「エピファニー」(epiphany)である。時の流れを特権的な刹那の裡に結晶させること、それによって無限に持続する虚無的で冷淡な「時間の圧政」に叛逆すること、それこそが三島的な欲望の核心を成している。そして「豊饒の海」という雄渾な大河の如き小説は「天人五衰」に至って「物語の消滅」という絶望的な状況へ帰着する。
これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蟬の声がここを領している。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
この有名な結末は「物語」の実在の証左に他ならない「記憶」さえも否定している。こうした凄まじい絶望の涯に、三島が割腹自殺を遂げたのは、現実の蛮行によって「物語の不在」を救済しようとする極限の選択であったのかも知れない。「春の雪」「奔馬」においては未だ赫奕とした光輝を保っていた「物語」は、「暁の寺」において失調を開始し、遂に「天人五衰」において完全なる破産を宣告される。三島自身の自画像にも見える安永透(明晰な認識力を持ち、転生の物語に連なることを企てる野心的な夢想家)は、自裁に失敗して悲惨な晩年に埋もれた。それは三島が最も忌み嫌った形式の「晩節」であったに違いない。彼は「物語の消滅」という事件を極めて精密に描き出しながらも猶、その圧倒的な絶望を受容する忍辱の余生を望まなかったのである。