サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「いつわりならぬ実在」への憧憬と恐懼 三島由紀夫「苧菟と瑪耶」

 三島由紀夫の短篇小説「苧菟おっとお瑪耶まや」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品は「花ざかりの森」同様、小説であるというよりは観念的な抒情詩に近い散文であり、尚且つ一個の作品として明確に離陸しているとは言い難い。一組の儚い男女の恋愛、恋人の死、悲嘆と恢復、そういった物語の原液とでも称すべき挿話と主題が、明晰な図像に結実する代わりに、夥しい比喩に彩られた観念的幻想の連鎖として綴られていく。恐らく三島由紀夫の後年の文学的成果を析出する諸々の要素は既にこの「苧菟と瑪耶」の裡に豊富に含まれているのだろうが、それは未だ独立した組織体としての明確な秩序、適切な構成を獲得していない。

 彼の日もすがら思いまどうているもの、それのためにおびえつづけているもの、いわば「いつわりならぬ実在」なぞというものは、ほんとうにこの世に在ってよいものだろうか。おぞましくもそれは、「不在」の別なすがたにすぎないかもしれぬ。不在は天使だ。また実在は天から堕ちて翼を失った天使であろう。なにごとにもまして哀しいのは、それが翼をもたないことだ。(「苧菟と瑪耶」『岬にての物語』新潮文庫 p.11)

 この「不在」という観念は、プラトンにおける「イデア」(idea)のように、決して肉体的な感官によっては把握されることのない不可視の「実相」を暗示しているように思われる。その「実相」に数多の雑駁な偶有的要素が附加されることによって、初めて「いつわりならぬ実在」は可視的な「仮象」の衣裳を纏うことが出来るのだ。

 死んだ瑪耶は、現象界に属する肉体的な仮象を脱ぎ捨てて、透明な「実相」の世界へ回帰する。その面影を慕いながら、やがて彼女の「本質」と融合する特別な秘蹟を体験したかのように見受けられる苧菟の姿は、プラトニズムにおける「恋心」の定義の詩的な再現のようにも感じられる。抒情的な幻想の連鎖は後年、論理の厳しい冷徹な運動と鋭く擦れ合って、徐々に明確な組織と秩序を形成し、例えば「金閣寺」のように稠密な構造を備えた傑作の生誕を準備することとなる。その意味では、この「苧菟と瑪耶」は極めて個人的な習作の部類に属するものと考えるべきだろう。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)