サラダ坊主日記

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殉教者の欲望 澁澤龍彦「三島由紀夫おぼえがき」

 引き続き、三島由紀夫に関する批評を渉猟している。今回は澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』(中公文庫)に就いて書く。

 大学時代に『偏愛的作家論』(河出文庫)を読んで目映い衝撃を受けて以来、私は澁澤龍彦を優れた批評家として敬愛してきた。彼の文章は観念的な事柄を扱っていても、言葉が上滑りせず、徒らに難解な表現へ堕すこともない。言い換えれば、上品なのだ。しかも、その文体における洗煉は、彼の批評的な鑑定の犀利を損なわず、寧ろその精確性を高めているように思われる。

 『三島由紀夫おぼえがき』と題された書物には、三島に関して澁澤が綴った多彩な文章が蒐集されている。生前の三島と親交の深かった澁澤の筆致には、冷厳な批評家の姦しい観念的饒舌を肉体的な感覚が程好く中和しているような、得難い滋味が宿っている。久々の再読を通じて、私は色々と蒙を啓かれる心地がした。

 三島由紀夫の時間意識は「超越」の旗幟に支配されている。この場合の「超越」という言葉は、プラトニックな含意を伴っている。プラトンにおける「実在」の観念は、あらゆる感覚的現象を超越する不可知の「実相」を指している。一般に「イデア」(idea)と称されるこの「実相」は、事物の「本質」のみで構成された純粋性として定義される。この「本質」は時間的=空間的な条件によって左右されず、現象界の制約を予め超越している。

 超越的な絶対者との合一、これが三島の見果てぬ野望の内実である。同時にそれは、人間が「生成」と「現象」の世界に属する限り、決して叶えられることのない不可能な欲望である。若しも絶対者との合一を本気で望むならば、俗世の肉体は棄却され、不完全な「此岸」は見捨てられなければならない。象徴的な表現を用いるならば、それは「殉教」の欲望である。超越的な絶対者との融合を求めて「此岸」を脱すること、そうした「殉教者」の精神にとって、完璧な価値は「彼岸」の領域だけに存在し、一方の「此岸」には不完全な事物の偶有的残骸だけが散乱していることになる。

 生成する現象的事物への侮蔑は「殉教者」の抱える精神的特徴の一つである。「金閣寺」の語り手である溝口の眼に「現実の金閣」が「心象の金閣」よりも色褪せて映じるように、殉教者の視野においては、可感的な対象は悉く「実在」の不完全な(偶有的な)模像として定義される。彼のメランコリーは、感性的な実存の世界が「比びない壮麗な夕焼け」(『金閣寺新潮文庫 p.290)から根源的に見限られていることの情緒的な帰結なのだ。

 このメランコリーが「生きること」への嫌悪、厳密には「衰えること」への堪え難い怨嗟を涵養する。澁澤が「絶対を垣間見んとして……」と題した文章の裡に引用している「天人五衰」の一節は、その簡明な要約として機能している。

 衰えることが病であれば、衰えることの根本原因である肉体こそ病だった。肉髄の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれていることは、衰亡の証明、滅びの証明に使われていることに他ならなかった。(『天人五衰新潮文庫 p.305)

 「生きること」は、不可避的に「衰亡」を含む。この「衰亡」が生成的な現象界の特質、即ち「時間」の特質であることは明瞭である。三島の殉教的欲望が「時間」の廃絶或いは超越を希求するのは、それが堪え難い「腐蝕」の作用を発揮して、完璧な「実在」からの疎隔を益々深めてしまうからだ。論理的必然として、生成的な現象界に属さない不朽の「実在」は「時間」による圧政を全面的に免かれている。従って殉教的な欲望は自ずと「無時間」の領域を志向する。

 絶対的な「価値」(それを「宿命」や「真理」と言い換えても差し支えない)への憧憬、こうした殉教者の精神的特質に就いて、澁澤は「道徳的マゾヒズム」という言葉を用いて説明している。絶対的価値との合一の為に「死」を含めた多彩な「苦痛」を味わうことは、殉教者にとっては紛れもない喜悦である。「受苦」への特異な執着は、殉教者におけるプラトニックなメランコリー、つまり自分が「真理」から隔てられているという憂愁から析出される。「金閣寺」を論じるに際して、こうした図式は有効な役割を担うだろう。

三島由紀夫おぼえがき (中公文庫)

三島由紀夫おぼえがき (中公文庫)