サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夭折」の再演 三島由紀夫「朝の純愛」

 三島由紀夫の短篇小説「朝の純愛」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 昭和期の戦後文学を代表する多才な文豪であった三島由紀夫の業績を要約して、要するに彼の取り扱った最も重要な主題は「アンチエイジング」(anti-aging)であったと断定したら、何を下らない戯言を吐いているのかと世人に叱られるだろうか。しかし、この簡素な要約は決して荒唐無稽の偏見ではない。実際に彼の遺した作品の随所に「老衰への恐怖」の心理的痕跡を発見することは少しも困難な作業ではないからだ。「老境の美」や「精神の美」といった言い訳がましい審美的理念を、彼の肉体的感性に対する執着心は聊かも尊重しなかった。例えば、美しい同性愛者の青年と、彼を寵愛する老年の作家との複雑な関係を描いた大作「禁色」には、次のような記述が含まれている。

 二条派の歌人頓阿の歌集や、志賀寺の上人の頁をひらいた太平記や、花山院退位の件りの大鏡や、夭折した足利義尚将軍の歌集や、古いいかめしい装幀の記紀があった。記紀には、多くの若く美しい王子が、邪まな恋や叛乱の謀事の挫折と共に、青春のさかりに命を絶たれ、あるいは自ら命を絶つという主題が、執拗に反復される。軽皇子がそうである。大津王子がそうである。挫折した古代の多くの青春を俊輔は愛した。(『禁色』新潮文庫 p.672)

 三島にとって「美」は絶えず肉体的な感官を通じて享受されるべきものであり、例えば「人柄」を「美」と看做すのは単なる抽象的な比喩の表現に過ぎない。従って、三島にとっての「美」は、必ず「若さ」との間に不可分の紐帯を有する。老化は「美」の緩慢な腐蝕と崩壊の過程であり、敢て老残の身の上に或る精神的で理智的な「美しさ」を読み取ろうとする欺瞞的な認識の努力は、少なくとも三島の耳には無益な詭弁としか響かなかっただろう。従って「美の絶頂において死ぬこと」が、三島の審美的な規矩においては、最も理想的な様態であるという結論が導き出される。「青春のさかり」を過ぎても猶、朽ちていく肉体を伴って生き永らえることは無惨な敗北の過程に過ぎず、如何なる「美」も宿命的な「半減期」の経過を免かれることは出来ないのである。

「さあ、呑みたまえ」と俊輔が言った。「秋の夜、君がそこにいる、葡萄酒がここにある、この世に欠けたものは何一つない。……ソクラテスは、蟬の声をききながら、朝の小川のほとりで、美少年パイドロスと語った。ソクラテスは問い且つ答えた。問いによって真理に到達するというのが彼の発明した迂遠な方法だ。しかし自然としての肉体の絶対の美からは、決して答は得られないのだよ。問答は同じ範疇の中でだけ交わされる。精神と肉体とは決して問答はできないのだ。

 精神は問うことができるだけだ。答は決して得られない、谺のほかには。

 私は問い且つ答えるような対象を選ばなかった。問うことが私の運命だ。……そこには君がいる、美しい自然が。ここには私がいる、醜い精神が。これは永遠の図式だ。どんな数学もお互いの項を換えることはできないのだ。尤も今では、私は自分の精神を故意に卑下したりするつもりはない。精神にもなかなかいいところがある。(『禁色』新潮文庫 pp.676-677)

 三島にとって「美」は、感性的なものから切り離し得ない官能的現象であり、その反対に「精神」は、本質的に醜悪な機構として定義される。少なくとも「精神」そのものが直接的に「美」という具体的な形象の姿を伴って、人の感官を潤すことは不可能である。「精神」は外在的な「美」を観照することは出来るが、決して自ら「美」の内部に到達し、「美」そのものに化身することは出来ない。

 恐らく三島の性急な不幸は、彼が「美」を観照し、認識する側の人間であることに自足し得ず、例えば谷崎潤一郎のように女性の神々しい「美」に向かって拝跪し平伏することだけでは満たされずに、自らの存在そのものを絶対的な「美」へ化身させ、他者の欲望の対象として提起することに極めて強迫的な執着を懐いていたことに由来すると思われる。

 美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前しており、確乎として手に触れることができる。われわれの官能が、それを味わいうるということが、美の前提条件だ。官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮げるから。希臘人が彫刻でもって美を表現したのは、賢明な方法だった。私は小説家だ。近代の発明したもろもろのがらくたのうち、がらくたの最たるものを職業にした男だよ。美を表現するにはもっとも拙劣で低級な職業だとは思わないかね。

 此岸にあって到達すべからざるもの。こう言えば、君にもよく納得がゆくだろう。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も安眠できない。……」(『禁色』新潮文庫 pp.679-680)

 「美」を観照したいという感情と「美」そのものに到達したいという感情とは、必ずしも等号では結ばれない。他者の美しさを愛でることと、自己を美しく装って他者の嘆賞を購うこととは同義ではない。「認識」における「美」は、必ず外在的対象との適切な「距離」の介在によって成立する。しかし「存在」としての「美」は、自ら「美」として存在し、振舞い、評価されるがゆえに、そのような「距離」を持たず、言い換えれば「美」そのものと、僅かな間隙さえ生まずに一体的に融合している。これらの違いは三島にとって決定的な意味を有していた。

 「禁色」における檜俊輔と南悠一、或いは「豊饒の海」における本多繁邦と松枝清顕や「女神」における周伍と朝子、そして「金閣寺」における溝口と「金閣」の対比的な関係は悉く、こうした「美」に関する「認識/存在」の二元論的な構図を踏まえていると言える。「朝の純愛」においては、自らの肉体を通じて顕現する「美」を如何にして永保ちさせ、時間の経過に伴う宿命的な衰滅から逃れるかという実存的な意識が、作品の主題として挙げられている。美しいものは、時間の経過という不可逆的な腐蝕の圧政の下に虐げられ、必ず当初の崇高で瑞々しい価値を喪失するよう定められている。例えば「結婚」の論理は、そのような時間的腐敗を恒常化させ、一つの様式として整備する為に組み立てられている。情熱的で悲劇的な「恋愛」の論理と比して、その保守的な性質、避け難い「倦怠」を常態化する「結婚」の論理は、恐らく三島にとって受け容れ難いものであったに違いない。彼が「幸福な夫婦」を描く代わりに専ら「不倫」や「情死」といった破滅的な「恋愛」の諸相を取り扱ったのも、そうした理由に根差していると思われる。彼が容認し得る「幸福な夫婦」の稀少な範型は、例えば「憂国」において描かれた若く美しい夫婦の姿だけで、しかもそれさえ崇高で厳粛な「大義」の名の下に自裁することで「時間」に基づく腐敗を免かれた為に、辛うじて許容されているに過ぎないのである。

 それとも二人だけの愛の思い出に生きていた、と云ったほうが適当かもしれない。彼らは一刻一刻を、あの最初の出会に、あの美しい最初の愕きに賭けていた。玲子は五十歳の良人に、くりかえし二十三歳の面影を見出し、良輔は四十五歳の妻に、たえず十八歳のういういしさを発見していた。

 これはグロテスクなことだろうか? これほどまでに主観的な美の幻影を、他人に納得させるのは不可能なことだろうか? 実は二人が実際に二十三歳であり十八歳であることをやめてこのかた、すなわち彼らの二十四歳と十九歳以来というもの、これは人生に於て、というよりは、人生を向うに廻しての、二人のもっとも重要な課題になっていたのだ。彼らは実に執拗に諦めなかった。何度でも最初の幻影に戻って来てそれを確かめ、かれらの外見の異常な若さがそれを扶けた。(「朝の純愛」『女神』新潮文庫 p.316)

 良輔と玲子の夫婦は、絶えず「時間」の経過による肉体の劣化に抗い、肉体と密接に結び付いた「美」の劣化を否定しようと格闘している。傍目には、こうした努力は明白に「グロテスク」であり、少なくとも不自然である。如何に徹底的な謀叛を試みようとも、刻々と過ぎ去り積み重なる「時間」の不可逆的な進行を、人間の賢しらな努力が食い止めることは不可能に等しい。

 二人が呼び起そうとしたことは単純なことで、ある五月の朝、さわやかな少女の目が、愛する青年の姿にそそがれ、野には露が充ち、地平線には戦争と生の不安が大きく立ちふさがり、別れが予定され、接吻が暁の最初の一閃のように二人の若い唇をよぎり、……そういう忘れがたい愛の至福の姿であった。しかし結婚して二十年このかた、良人はいつもそこにおり、妻はいつもそこにいた。誰がそれを咎めることができたであろう。そこにいる、ということは、変えようのないことであり、そこにいるということが確実になったときから腐敗は進行する。二人は世のつねの夫婦とちがって、全力をあげてこの腐敗と分解作用に抵抗しようとしたのである。(「朝の純愛」『女神』新潮文庫 pp.319-320)

 良輔夫婦の努力は「結婚」という社会的制度が強いる一般的な要請に正面から逆らっている。彼らは「恋愛」の情熱を恒久的に保持しようとする奇態な祈りに魂を拘束されているのである。時間の経過によって毀損されることのない「恋愛」の新鮮な活力を繰り返し蘇生させる為に、彼ら夫婦はあらゆる術策を弄した。見ず知らずの本物の若者との情事を通じて「幻影」を極限まで強めた二人は、遠い昔に失われた鮮烈な「恋愛」の記憶を体現してみせる。その幻想的な絶頂に達したところを、欺かれた若者の兇刃に刺し貫かれて果てるのは、夫婦にとっては思わぬ余慶であったかも知れず、或いは不快な誤算であったかも知れないが、作者にとっては完璧な審美的幻想を仕上げる為の素晴らしい着想であったに違いない。殺されることによって、彼らは「生の腐敗」という悲劇的な宿命から救済されたのである。言い換えれば、この「朝の純愛」において描かれたのは「夭折の再演」であり、謂わば「青春のさかり」に完璧な死を遂げることの出来なかった男女が、人為的な策略を通じて喚起された幻想的な「青春のさかり」において、擬似的な「夭折」を実現する物語であると要約することが出来るだろう。それは戦時下の青春において英雄的な「死」の栄誉に与ることの出来なかった作者が、容易に捨て去れず抱懐し続けた不可能な夢想の反照のようにも感じられる。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫