サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 5

 目下、三島由紀夫の『沈める滝』(新潮文庫)を読んでいる最中なのだが、不図思い立って再び『禁色』(同上)に就いて考えたことを備忘録として書き遺しておく。

⑤同性愛の形而上学的性質と「享楽」

 私は同性愛というものの実態に就いて具体的な知見を持たないし、男性に対して性的な感情を懐いた経験もないので、「禁色」の世界に織り込まれている男色の精密な描写に就いても深く理解していると自信を持って言い切ることは出来ない。そして「禁色」においては「同性愛」が「禁じられた官能」の象徴であることによって文学的な意義を獲得していると、私は個人的に考えているので、同性愛の実態に関する精細で稠密な描写それ自体に固有の芸術的価値を、作者が認めているとは思っていない。だが、そうやって乱雑に主観的な斬り捨て方を選び取るだけでは、折角の読書体験から生産的な知見を汲み上げることも、己の狭隘な視野を開拓することも出来ないという反省に基づき、もう一度「同性愛」というものの特質に就いて漫然たる思索の一端を披瀝してみたい。

『よしんばこの青年と一緒に出かけても』と悠一は盃を見つめながら、考えた。『何一つ新らしいものはなく、依然独創性の要求は充たされないことがわかっている。男同士の愛はどうしてこんなに果敢ないのか。それというのも、事の後に単なる清浄な友愛に終るあの状態が、男色の本質だからではないのか。情慾がはててお互いが単なる同性という個体にかえる孤独な状態、あの状態を作りあげるために賦与えられたたぐいの情慾ではないのか。この種族は、男であるがゆえに愛し合う、と思いたがっているが、実は残酷にも、愛し合うが故にはじめて男であることを発見するのではないのか。愛する以前のこの人たちの意識には、何かひどくあいまいなものがある。この欲望には、肉慾というよりも、もっと形而上学的欲求に近いものがある。それは何だろう?』

 ともあれ彼が、いたるところに見出すのは厭離の心である。西鶴の男色物の恋人たちは、出家か心中にしかその帰結を見出さない。(『禁色』新潮文庫 pp.490-491)

 この一節に含まれている認識の意味を精確に言い当てることは至難の業である。少なくともここには、同性愛を異性愛の性別における変種、或いは単純な対義語として捉える代わりに、同性愛の原理が抱え込んでいる構造的な特異性そのものへの悲嘆を交えた認識が刻まれている。言い換えれば、ここには「男色への欲望は果たして『肉慾』なのか?」という疑問符が大書されているのである。

 私は人間が必ずしも異性だけを愛するとは限らず、人間の官能的な欲望が絶えず異性だけを希求するとは限らないことを知識としては弁えている積りだ。だが、男が男を欲するときの感情と、自分が女性を欲するときの感情との間に、同一の構造を見出すことが可能なのか、その点に就いては判断を下す為の具体的な材料も根拠も持ち合わせていない。

 だから、共感や実体験を礎として分析を進めることが出来ない代わりに、飽く迄も客観的で表層的な事実から、己の思索を敷衍していくしかない。例えば端的に言って、異性愛には原則として「生殖」という結果が附随し、それが様々な社会的制度の基礎的な部分を形作っている。異性愛には種族の生物学的繁栄に資する創造的な効果が生得的に埋め込まれている。無論、この特徴を過度に強調すれば、同性愛に対する差別的な観念の働きを助長してしまう虞があることは承知しているが、もう少し話を前に進めさせてもらいたい。

 同性愛は原則として「生殖」の原理に貢献しない。その意味では、同性愛は本質的な意味で「享楽」以上の結果を齎すことは出来ない。異性愛の場合には、その過程で如何なる無感動が介入しようとも「生殖」の可能性を堅持することは出来る。無論、異性愛であっても肉慾を享楽の段階に留めておくことは、技術的には可能である。だが、異性愛の場合には、そこから先へ進むことが出来る。こうした問題は、生物学的な問題であると同時に、社会的或いは政治的な問題であるとも言える。同性愛は、既存の社会の存続に生物学的な意味で貢献することが出来ず、従って社会の存続という観点から眺めれば、常に少数派として抑圧しておくことが望ましいという結論に至る。愛情というヒューマニスティックな理念は一旦棚上げにしておこう。良くも悪くも、無粋な言い方にはなるが、男女の情交は子孫の繁栄を本質的な効果として担っている。そこに附随する愛情の様々な詩的表現は、生殖という圧倒的な原理の力強さの前では容易に色褪せてしまう。そして同性愛は「生殖」というプロセスを通じて、社会的な原理の循環に介入したり関与したりする資格を概ね剥奪されてしまっている。

 男女の愛情が生殖を推進し、やがて子供という象徴的な存在を生み出し、延いては社会の存続に貢献するという生物学的な真実に、男色家たちは絶えず疎外されてしまっている。性的マイノリティの人権の保護が発展し、彼らの性的な自由が法的に庇護されるようになったとしても、生殖という厳然たる事実が存在し、出生率の低下と人口の減少が重大な社会的問題として認知されている世界で、同性愛が本当の意味で主流の地位を占めることは恐らく有り得ないだろう。彼らの愛情が、或る特殊性を備えて眺められるのは、単に彼らが少数派であることだけが理由ではない。彼らの性的な行動と欲望と志向性が、共同体の物理的な存続に寄与し得ないという厳然たる事実が、彼らの性的な権利を社会の根幹に位置付けることを妨げてしまうのである。

 かつて不妊の男女が社会的な弾圧の対象となり、今でも苦しむ人々が少なくないように、同性愛に対する社会的な偏見の根深さは、彼らの存在が「生殖」という人類学的な伝統と原理に適合していないことに起因しているのではないかと思われる。そういう観点から眺めたとき、男色家の孤独は極めて根源的な理由によって支えられ、定義されることとなる。「清浄な友愛」に帰結することを強いられた男色家たちには、社会的に公認された「未来」や「物語」が欠如している。これは所謂「性同一性障害」の問題とは異質である。性別に関して生じる精神と肉体の「齟齬」だけが問題ならば、その解決は技術的なものとなる。性転換手術が成功すれば、彼らは社会が公認し推進する「異性愛の原理」に参与することが可能となる。だが、純然たる男色には、そのような技術的な解決の介入する余地がない。それは根本的に「生殖」の原理から乖離している。或いは、このように考えるべきだろうか。同性愛の世界には、所属する万人に共通する要素であるとは言えないものの、「異性愛の原理」の核心に位置する「生殖」という理念への「抵抗」の欲求が潜在しているのではないか、と。

 無論、総ての同性愛者の胸底に「生殖」への嫌悪が存在するなどと独善的な強弁を弄する積りはない。私が論じているのは可能的な理念としての「同性愛」であって、それが千差万別の個性を持った男色家たちの具体的な生態と完全に重なり合うとは考えていない。ただ、彼らの精神的な秩序の中に「生殖」を重要な核心として備えた「異性愛の原理」に対する抵抗の意識が埋め込まれている可能性を検討してみたいと思うだけだ。

 自分たちの至福の世界の到来をねがい、共同の呪われた利害で結ばれ、かれらは一つの単純な公理を夢みていた。即ち男は男を愛するものだという公理が、男は女を愛するものだという古い公理をくつがえす日を夢みていたのである。(『禁色』新潮文庫 p.156)

 少なくとも「禁色」の世界において、男色家たちは「男は女を愛するものだという公理」との共存共栄を企図してはいない。彼らは「異性愛の原理」の絶対的且つ歴史的な覇権を「同性愛の原理」によって転覆することを希求しているのである。だが、それは同性愛という原理が長年に亘って深刻な社会的弾圧の対象に選ばれてきた現実への報復の欲望に過ぎないのであろうか? そもそも、同性愛という原理そのものの内部に、異性愛の原理に対する或る根源的な敵愾心のようなものが不可避的に組み込まれているのではないだろうか? 私は何も、異性愛と同性愛との間に無用の対立や抗争を喚起したいと考えて、このような理窟を述べ立てている訳ではない。重要なのは、同性愛を異性愛の単なる変種と看做す認識論的な枠組みの正当性に慎重な疑義を呈することである。つまり「異性愛の原理」に則った関係性を、生物学的に同性の伴侶が演じているに過ぎないという短絡的な想像を安易に肯定しないことが肝要なのだ。

 私は同性愛の官能的な側面に就いては詳しく立ち入ろうとは思わないし、立ち入る為の経験的な根拠も持っていない。ただ、同性愛を異性愛の単純な変種として捉える限り、恐らく「禁色」の世界の深層を理解することは不可能に等しくなるだろうと感じるのである。

 ……それもその筈だった。ルドンを中心とする世界には、熱帯地方のような生活、つまり流謫にひとしい植民地官吏のような生活しかなかった。要するに、この世界には感性のその日暮しが、感性の暴力的な秩序があるだけだった。(しかもそれこそこの種族の政治的運命だったとしたら、誰が抵抗できよう!)

 そこは異様な粘着力のある植物が密生したいわば感性の密林だったのである。(『禁色』新潮文庫 pp.159-160)

 若しも同性愛が異性愛の単純な変種に過ぎなかったとしたら、男色家たちの生活は必ずしも「感性の暴力的な秩序」の専制に苦しめられ、虐げられる宿命を背負い込まずとも済んだであろう。彼らの生活が「感性の密林」に呑み込まれてしまうのは、異性愛の原理を奉じる社会にとって、彼らが危険な存在である為だ。男色を認めることの中に、既存の旧弊な社会を成り立たせてきた根源的な機構への危うい痛撃が含まれているからこそ、男色への歴史的弾圧は極めて峻厳な性格を営々と保ってきたのである。「生殖の否定」という本質的な性格が存在しなければ、同性愛への迫害はもっと穏健な形態を選択し得たであろう。恐らく、同性愛への弾圧の厳しさは、生殖に結び付かない、純然たる享楽を目的とした性愛への弾圧の厳しさと同期している(カトリシズムにおける同性愛と中絶への峻厳で抑圧的な取り扱いを考慮してみるべきである)。「生殖の否定」を伴う性愛が、共同体の存続に背反するものであることは、冷静に検討してみれば直ちに明白に理解され得る端的な事実である。同性愛は本質的に、如何なる意味でも「生殖の原理」とは相関し得ない。つまり、同性愛には不可避的な「享楽性」が象嵌されており、それは種族の存続に貢献し得ないゆえに、半ば自動的に「姦淫」の範疇に類するものと看做され、禁圧されてしまうのである。

 男の肉体は明るい平野の起伏のように、一望の下に隈なく見渡されるものだった。それは女の肉体のように散歩の都度あたらしく見出される小さな泉の驚異や、奥へゆくほど見事な晶化の見られる鉱石の洞穴をもってはいなかった。単なる外面であり、純粋な可視の美の体現だった。最初の熱烈な好奇心に愛と欲情の凡てが賭けられ、その後の愛情は精神の中へ埋没するか、ほかの肉体の上へ軽やかに辷ってゆくかしかなかった。(『禁色』新潮文庫 p.150)

 同性愛の欲望は飽く迄も肉体の「外面」に留まり続け、それ以上の深みへ陥入することが出来ない。言い換えれば常に「清浄な友愛」以上の結果へ突き進むことが出来ない。その形而上学的な性質、或る抽象的な性格が、異性愛の原理に依拠して構築された社会と世界を震撼させるのではないか。同性愛の形而上学的な性質は要するに「享楽」というものの本質的な抽象性と符合しているのである。

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)