サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 1

 昨年末から営々と読み続けていた三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)を昨夜、漸く読了したので、感想の断片を書き留めておく。

 優れた小説は、単純明快な一つの物語の筋によっては構成されず、単一の包括的な原理によって一義的に支配されることもない。そこには必ず複数の異質な原理が共存して劇しく隠微に衝突し合っているものであり、そうでなければ「小説」という文学的様式が読者の心に或る「世界」の実在の感覚を与えることは不可能である。況してや、文庫で六百ページを超える分厚い読み応えの「禁色」を、一つの単純な論理と規矩で裁断し、その意図や価値を一義的に定めることなど出来る筈がない。優れた小説は単純明快な要約を峻拒する、輻輳と豊饒を必ず備えており、それを単一の図式に還元して総括的に論じることは常に一面的な偏倚の謗りを免かれない。言い換えれば、或る作品を解読するに当たっては実に様々な切り口を見出すことが可能なのであり、単一の正統的な解説を探し求めることは読書の本懐ではない。寧ろ私たちは多様な解読の形態を一人ずつ創出していかなければならない。多様な解釈の可能性を切り拓くことが、結果として作品に対する至高の愛情と敬意を形作るのである。

 以上の考えに基づいて、本稿では幾つかの主題を掲げながら、この「禁色」という重厚な作品に関する個人的な感想を書き連ねていくこととする。

①「異性愛の原理」に対する抵抗と屈従

 三島由紀夫の作品には、幾つかの重要な主題が反復的に登場するが、この「禁色」において最も濃密で本質的な存在感を発揮して読者の網膜に映じるのが「同性愛」という問題であることは、明白な事実であろうと思う。作家の出世作である「仮面の告白」において明瞭に打ち出された「同性愛」の表象は、この「禁色」において更に稠密で行き届いた表現を獲得した。

 電車が来たので悠一はさっさと乗り込んだ。さっきの会話をきいていた時は多分顔を見られなかったろう。同類と思われてはならない。しかしジャンパアの男の目には欲情が燃えていた。混んだ電車のなかで、男は爪先立って悠一の横顔を探していた。完全な横顔、若い狼の精悍な横顔、理想の横顔……。しかるに悠一は濃紺のトレンチコートの広い背を向けて、「秋の行楽はN温泉へ」と書いてある紅葉をえがいた広告を見上げていた。広告は皆それだった。温泉、ホテル、簡易御宿泊、御休憩にどうぞ、ロマンスルームの設備あり、最高の設備最低の料金……。一つの広告には、壁に映る裸婦の影と、ゆるやかに煙をあげる灰皿の煙草が描かれ、「この秋の夜の思い出は当ホテルで」と書いてある。それらの広告は悠一に苦痛を与えた。この社会が畢竟するに、異性愛の原理、あの退屈で永遠な多数決原理で動いていることを、否応なしに味わわされるからである。(『禁色』新潮文庫 p.89)

 「異性愛の原理」に依拠して駆動している社会の排他的な側面に、異性愛の感受性を信じて疑わない人々は何の不満も覚えない。私自身、同性愛の傾向は少なくとも現時点では持ち合わせていないので、同性愛者の抑圧された心情に対して具体的な共感を懐くことは困難である。但し、こうした問題は何も同性愛に限らない。共通して言えるのは、或る社会が運営されていく過程において、何らかの一般性が確立される限り、必ずこのような排除の原理は顕現せざるを得ないということである。

 異性愛の原理が、人間の生物学的な必要性、つまり子孫を生み出して種族の存続を図るという「繁殖」の原理との間に強固な紐帯を結んでいることは明瞭である。種族の存続を図る為に性的な欲望が存在し、性別の異なる人間同士を性的な悦楽によって結び付ける仕組みが成り立っている世界で、異性愛の原理が同性愛の原理に対する根源的な優越性を維持することは、合理的な成り行きである。だが、私たちの有する性的な感情は、必ずしも「繁殖」との間に絶対的な相関性を持たない。仮に性的欲望の起源が「繁殖」の原理に存していたとしても、私たちの感じる性的な快楽は常に、そのような「繁殖」の欲望から遊離した状態で活動している。

 この性的欲望と「繁殖」との間に生じる乖離が、私たちの性的な問題を複雑な主観性の領域へ拉してしまう。性的快楽が「繁殖」との絶対的な相関性を持たずに遊離している為に、つまり性的快楽が様々な主観的観念による修正と制約を受け得るものとして存在している為に、私たちの性的志向は、あらゆる多彩な様式を身に纏い得るのだ。しかし、性的志向の多様性は、共同体の存続という観点から眺めたとき、大きな危機の火種と看做される。宗教的な罪悪としての「姦淫」の観念が、長い歴史を通じて人類の生活を呪縛してきたことは周知の事実であり、性的志向に対する様々な社会的制約の存在は、現代においても充分に強力な影響力と威信を保持している。

 性的欲望の観念的な多様性、或いはその恣意的な性格が、「異性愛の原理」によって支配され、統合され、監視されてきたこと、そうした社会的現実に対して、物語の主人公である南悠一は「苦痛」を覚える。だが、その「苦痛」が例えば同性愛であることの公共的な表明(所謂「カミングアウト」)に繋がることはない。少なくとも「禁色」の世界においては、同性愛は社会的に隠匿すべき「異常性」の一環として捉えられている。言い換えれば、同性愛という観念が「異常性」の一環として捉えられているからこそ、この主題に作品の世界を力強く動かし、特徴付ける卓越した役割が与えられるのである。

 もう一人の重要な登場人物である檜俊輔は、異性愛の原理に骨の髄まで浸り切っていながら、幾度も女性に裏切られて痛手を負ってきた人物である。同性愛の志向ゆえに女性を愛することが出来ない悠一と、度重なる敗残によって女性に対する憎悪を募らせた俊輔との陰湿な共謀が、この作品の前半の主要な旋律を形作っている。「女を愛さない絶世の美青年に女を誘惑させる」という手間の掛かった復讐の戦略は、標的に選ばれた女性たちの精神に深刻な傷口を穿つ。だが、そのような復讐が、同性愛という悠一自身の性的な志向にとって、如何なる生産的利益も齎さないことは自明である。それは確かに広い意味では「異性愛の原理」に対する狡猾な抵抗であるが、その抵抗によって堅牢な「異性愛の原理」が崩落する見込みは乏しい。飽く迄も俊輔の個人的な怨恨が僅かに緩和されるだけの話である。

 従って、前述した狡猾な策略の成功にも拘らず、この作品から「異性愛の原理」に対する果敢な闘争の記録を抽出することは出来ない。そもそも、この作品を覆っている濃密な主題としての「同性愛」は、厳密に捉えるならば「同性愛」そのものではない。作者にとって「同性愛」が重要な意味を持つのは、それが劇しい社会的禁圧の対象に選ばれているからであり、例えばそこに「同性愛」と「異性愛」との社会的な格差を解消しようとする建設的な戦いへの志向性を見出すことは不可能である。「同性愛」は具体的な現実として捉えられているのではなく(作中における男色家たちの集まる世界の具体的な描写の精細さにも拘らず)、飽く迄も表題に掲げられた「禁色」という言葉の暗示する通り、「禁じられた性」の象徴として捉えられているのである。「同性愛」が作者にとって特権的な意義を有するのは、それが社会的な禁忌として抑圧されているからなのだ。極論を述べれば、作者にとって「同性愛」は抑圧から解放されるべきものではなく、寧ろ「異性愛の原理」への堪え難く息苦しい屈従の姿勢を維持すべきものなのである。

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)