サラダ坊主日記

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清浄なる異性愛の幻想曲 三島由紀夫「潮騒」

 三島由紀夫の『潮騒』(新潮文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 新潮社文学賞と称する栄典の第一回を授与された「潮騒」という小説が、三島由紀夫の文学的経歴においては極めて異色の風合いを備えた作品であることは、多くの論者によって指摘されているし、市井の読者の間でも周知の事実であろうかと思う。実際、夥しい観念と愛慾の輻輳する大作「禁色」を書き上げた三島が、都会の風俗から隔絶した離島を舞台に、清純極まりない男女の古典的な恋愛の模様を描くなどという所業は、当時の読書や評家たちの意表を衝いたのではないだろうか。「禁色」において、あれほど執拗に表現された「異性愛の原理」との確執は、何処へ消え去ってしまったのか? 作者は本当に俗説の通り、ギリシャの風光を浴びて別人へと変貌を遂げてしまったのか? 無論、話はそれほど単純ではない筈である。

 三島が同性愛やサディズムに親和性を有していたのか、その真相を私が探り当てる手段はない。そんなことは、本人でさえ明瞭に自覚しているかどうかも分からない性質の事柄である。但し、彼の文学的な履歴、つまり彼が地上に遺した作品の多くに、絶えず愛慾の複雑な諸相が彫り込まれており、そこに清純とは御世辞にも言い難い背徳や不倫の陰翳が差していることは端的な事実である。そもそも彼の文学的な立身と向後の華々しい栄光を劃した「仮面の告白」にも、同性愛とサディズムの表現は随所に氾濫している。「愛の渇き」にしても「禁色」にしても、彼の描き出す恋愛の諸相には一筋縄ではいかない漆黒の混濁と汚穢が絶えず付き纏っている。そういう経緯を踏まえれば、猶の事「潮騒」に描かれた古代的な純愛の明朗な様態が奇異に感じられるのも、詮方ないことである。

 それにしても「潮騒」という作品の世界に象嵌された恋愛の様式の、甚だしい道徳性と清浄なる外貌は、私たちの暮らす日常的な現実から大きく乖離している。如何なる留保もなしに、男女間の異性愛という枠組みが前提とされていること、婚前交渉の禁止、勧善懲悪、人々の祝福、性交の場面の割愛、恋愛と結婚との極めて滑らかな接合。これらの要素が、一般的な社会が最も重んじる美徳の数々を一層理想的な仕方で形象化したものであることは附言するまでもない。此処には確かに恋愛という営為の道徳的な理想形が彫琢されている。それは万人が愛好する恋愛の形式であるとは言えないが、恋愛という本来は原始的な情欲の営みを社会的な秩序と調和させる上では、最も無難で健全な形式であると言える。此処には性的な多様性に対する政治的配慮の必要など微塵も存在していない。何故なら、最初から性的多様性という観念は厳格に排除されているからだ。単純な異性愛、単純な欲望、単純な恋の鞘当てが描かれるばかりで、しかも恋愛は結婚へ直接的に結び付いている。このような単純明快の世界観を、あの三島由紀夫が素朴な意味で信じていた筈はない。彼は、このような世界の現前が殆ど不可能な夢想に過ぎないことを承知の上で、しかも自身の性向が「潮騒」の提示する恋愛の理想形とは全く相容れないものであることを充分に知悉した上で、一つの華麗な逆説の如く、この道徳的な理想郷を紙上に建設してみせたのではないか。

 今にして新治は思うのであった。あのような辛苦にもかかわらず、結局一つの道徳の中でかれらは自由であり、神々の加護は一度でもかれらの身を離れたためしはなかったことを。つまり闇に包まれているこの小さな島が、かれらの幸福を守り、かれらの恋を成就させてくれたということを。……(『潮騒新潮文庫 p.187)

 或る一つの道徳律によって支配され、庇護されている小さな世界、いわば単一の象徴によって包摂される同質性の集団、そこでは性的な多様性が抑圧されるように、人々の信じる規律も単一のものへと収斂を命じられる。総てが単純で力強い描線によって構成され、人々は外部から異質な他者の侵入する脅威に晒されることも、その虞を警戒することも知らない。その閉鎖的な箱庭のような世界の片隅で成就する一つの清浄なる恋愛は、恐らく三島にとっては侮蔑の対象ではなく、痛切な憧憬の対象であったのだろうと思われる。「愛の渇き」や「禁色」における、地上の愛慾の百面相を極めて残酷に解剖していく冷徹な外科医の如き筆致は、この「潮騒」においては慎重に手控えられている。彼は飽く迄も丁寧な指遣いで、美しい理想的な世界の幻像を積み上げていく作業に専心している。但し、この場合の「憧憬」という言葉は、彼が自らそのような人間になりたいと願っていたという意味ではない。彼は余分な想像力や感性を持たず、肉体的な論理に閉ざされて生きる人間の簡明な健康さに憧れを懐いただろうが、それが自身にとって不可能な夢想であることも同時に生々しく理解していた筈である。端的に言って彼は、この地上に存在し得ない仮初の虚像を描いたのであり、その筆致が如何に心根の優しいユーモアの旋律を奏でていたとしても、それは作家の本領に合致するものではなかったと看做すべきである。

 言い換えれば、三島が「潮騒」を通じて表象したのは、俗世間に覆い被さる男女関係の理想的な「神話」である。異性愛、恋愛結婚、家族の三位一体主義の最も理想的に整えられた幻想的な形態として「潮騒」の物語は存在しており、しかもそれは「神々の加護」によって幾多の艱難から守られているのである。こうした幻想を持ち前の流麗な文体で完璧に仕上げてみせた作家の手腕と企図には、憧憬と共に皮肉な悪意が潜んでいる。童貞と処女の二人が、親の許可を勝ち得て所帯を持ち、やがて子を生すという典型的な「純潔」の神話を誇張して描き出すことで、彼は「仮面の告白」以来の「擬態」の能力を存分に発揮してみせたのだ。その意味では、如何にナチュラルな気品に満ちているように見えたとしても、飽く迄も「潮騒」の審美的な価値は「人為」の塊であると言うべきである。

潮騒 (新潮文庫)

潮騒 (新潮文庫)