サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

幸福に堪えられない人間

 人は誰しも幸福であることを願うものだが、幸福には厄介な側面が備わっている。それは「何事も起こらない平穏に順応する」という論理的構造を含んでいるが、その幸福な平穏は必ずしも人を満足させない。退屈は人を殺しかねない。古伝に「小人閑居して不善を為す」という言い回しがある通り、平穏無事の幸福に充足する為には精神的な修養が不可欠である。目先の刺激に振り回されて、安穏な日常を溝へ抛り込むような愚行は、世間に有り触れている。

 退屈な幸福と、刺激的な不幸との二元論的な対立は、私たちの心を底知れぬ悩ましさの淵へ突き落とす、邪悪で贅沢な設問である。そもそも、このような選択は安閑たる幸福を獲得した、恵まれた境遇にある人間にしか取り組むことの出来ない、稀少な問題なのだ。だが、社会的に恵まれている人間に、如何なる懊悩の権利も資格も認めないという見解は、貧者のルサンチマンに満ちた偏見に過ぎない。相対的に恵まれているからと言って、人間の懊悩が根絶されることは有り得ないのだ。如何なる環境と社会的な条件の中においても、人間は等しく不幸と煩悶を享受する力を備えている。どんな境遇の中においても、人間の心を懊悩は等しく捕える。

 幸福は、或る意味では麻薬のようなもので、徐々に耐性が増していく。人間は無いものねだりを繰り返すのが習い性であり、既に手に入れたものの有難味を容易に忘れ去り、未だ手に入っていないものに憧れを募らせ、古びたものより新鮮なものにより多くの価値が備わっていると迂闊に信じ込む生き物である。私たちは、あらゆる種類の欲望が満たされたときに、幸福を覚えるのではない。幸福は寧ろ、享楽的なものを否定する理性的な働きによって齎される。享楽的な精神は常に飢渇を覚え、その飢渇に駆り立てられて何物かを劇しく欲し、それを獲得した瞬間の強烈な陶酔と法悦に痺れるような幸福を見出す。だが、それは幸福ではなく、欲望の一時的な充足である。快楽は射精に似ているが、幸福は寧ろ射精を否定するところに建設される不壊の建築である。だが、人間の内なる邪悪な側面は、そのような不壊の建築に対する破壊的な衝動へ囚われる場合がある。退屈な幸福に向かって殺意に類する感情を覚えることがあるのだ。

 享楽的な精神は満たされないことによって駆動するが、そのような無限の輪廻にも似た享楽を低次元の動物的な欲望として蔑視し、欲望を否認することで安寧の境地へ至ろうとする態度が、特別に高級な人間性を証するものだとは言い切れない。享楽的な精神が永遠の飢渇に苛まれるからと言って、敢えて享楽を否定することに別種の充足を見出そうとする観念的な工夫は、如何にも人間らしい賢しらの狡智である。結局は、それも欲望の一種に過ぎず、いわば「享楽を否定する享楽」という捻りを加えた新手の満足を発明したに過ぎないのではないか。宗教的な禁欲が、それ自体の内部に奇妙な充足の根拠を見出していると考えても奇異ではない。欲望を禁じることに快楽を見出す欲望が存在し、それが清廉潔白な聖人君子の群れを少数派ながらも生み出しているのだとすれば、それも一つの欲望の類型に過ぎず、単なるエピキュリアンと比べて聖者が偉いとは断定し難くなる。

 禁欲的な退屈、享楽に付き纏う危険を抑制する為に極めて保守的な身構えを選び取ること、そのような道徳的幸福論に堪え難い虚無を感じることがあるのも、人間の心理的な特質の一つであろう。ストイシズムには、ストイシズムに固有の秘められた愉楽が潜んでおり、それは如何にも仰々しい派手な享楽の態度とは対蹠的な外貌を持ちながらも、実際には特殊な欲望に衝き動かされているに過ぎないと言い得るのであり、従って人間は何処まで行っても欲望と衝迫の不可解な権力に抗うことは出来ないのである。欲望を自制し、軽蔑すること自体が一つの特異な欲望の形式であるならば、そのような畏まった欲望の偽善的な虚しさに苛立って牙を剥きたくなるのも立派な人情である。

 幸福、つまり欲望の断念と引き換えに顕れる奇妙な充足の感覚、それは確かに人間の傷ついた心を潤すものである。享楽が齎す様々な苦しみと悲しみ、怒りや懼れ、それらの複雑な愛憎の百鬼夜行を否定することは、大人へ通じる階梯であるとも言い得る。だが、そのような「成熟」の理念を金科玉条として崇拝することが直ちに賢明で良識的な態度であると褒められるのは、随分と偏った一面的な見方ではないか。このブログで何度も執拗に取り上げている坂口安吾の「風と光と二十の私と」では、自然との交歓という形で描き出された禁欲的な充足を、作者は否定的な眼差しで哀惜している。人間の尊厳を「苦しむこと」に見出そうとする坂口安吾の独特なモラルは、欲望の断念としての幸福(彼の言葉を借りるならば「老成の実際の空虚」)を偽善的な幻想として斥けている。ストイシズムの空虚な内実を否定し、あらゆる道徳的な幸福論の欺瞞を摘発することが、彼の個人的な倫理学の核心であったのだろうと、私は思う。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

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風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

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