サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「沈める滝」・作家主義・mysticism)

三島由紀夫の『潮騒』(新潮文庫)を読み終えて感想文を書いたので、今日から同じ作者の『沈める滝』(新潮文庫)を繙き始めた。未だ冒頭の数ページしか読んでいないので、具体的な感想など書きようもないが、主役の城所昇の人物像には「禁色」の南悠一と「青の時代」の川崎誠を混ぜ合わせたようなニュアンスが付き纏っている。

 様々な作家の様々な作品を、その時々の個人的な興味や関心に応じて、或いは全くの偶発的な邂逅に委ねて、手当たり次第に自由自在に啄んで巡るのも愉しいが、或る作家の遺した無数の作品をバラバラに切り離して、作品という孤立した単位として扱うのではなく、一人の作家の存在を基軸に据えた上で、その著作を集中的に読み込んでいくと、浮薄な放浪の読書では得られることのない綜合的な感想や発見を手に入れることが出来る。少なくとも、作品の孤独な完結性に着目するばかりの読書よりは、もっと作品を宏大な文脈と経緯の中に位置付けて捉えることが出来るので、作品に対する理解度が高まるように感じられる。無論、濫読には濫読に固有の巨大な体系性が存在するとも言えるから、一概にどちらが好ましいかという問いへ明瞭な答えを与えることは難しい。

 無論、作品に作家性を求めるのはナンセンスな偏見であり、作品は作品自体として様々な外在的な文脈から切り離された状態で鑑賞されるべきだという見解にも一定の説得力があることを認めない訳ではないが、そもそも作品が一つの明瞭な輪郭を携えた個体であるかのような捉え方が極めて恣意的な信仰に支えられているに過ぎないことは、予め自覚しておいた方が賢明であろう。確かに作品の解釈が作品そのものの放出する種々の情報と関わりのない、専ら外在的な基準や文脈による査定に傾斜してしまうのは、作品の固有性や独自性を無効化し、剥奪することに繋がってしまう。それでは作品が作品として結晶したことの本質的な意義が見失われてしまうではないかという危惧が、そのような作品至上主義の果敢な提言を生み出すのであろう。

 けれども、作品というものが絶えず堅固な固有の実体を備えているべきだという考え方には、芸術の意義や価値に関する過度に美化された期待のようなものが色濃く刻み込まれていて、必ずしも一から十まで承服し得るとは思えない。作品が、様々な問題や観念の集積する特異な領域として、或いは人間の精神的な「焦点」のようなものとして存在し、その解釈が時代や世相を反映して多彩に遷移していったり、或いは独特の視点から加えられた省察によって斬新な変異を遂げたりすることは、少しも芸術にとって損失ではない筈だ。作品そのものの独立した価値を強く主張することは、一種の神秘主義的な閉鎖性へ人々の心を突き落とす、剣呑な副作用を孕んでいると私は思う。こういう芸術的ミスティシズム(mysticism)は、如何なる解釈も超越した絶対的な正解が存在するかのような錯覚を却って招き易い。それならば、あらゆる多様な解釈を野放図に容認する野蛮なアナーキズムの方が、芸術と作品の立場にとっては遙かに生産的ではないだろうか。

 芸術は人間によって生み出され、人間の特異な実存との間に必ず緊密な紐帯を維持しているものであり、芸術を作品という結果だけに基づいて論じる合理的な態度が、純粋であるから客観的であり、客観的であるから妥当であるという論法は成立しない。作品を純化して、あらゆる外在的な文脈から切断してしまえば、真実の価値だけが消え残るという信憑に、そもそも実証的な根拠が宛がわれている訳でもないのだ。

 無論、作家の思想が作品という形で結実するという単純な作家主義的方法論でアプローチするのも片手落ちである。作品が作家の意向に対して全面的に隷従するなどという神話は今日、すっかり黴の生えた異端的な信仰として排斥されている。如何にも近代的な主体性の思想に何もかも預けて委ねてしまい、作品を作家の道具と看做して敬意を欠いた解剖を試みるのは、如何にも野卑な振舞いである。重要なのは、丁寧に読むこと、そして読むことから触発された考えや発想を自分自身の頭で捉え直してみることである。作品は、あらゆる価値を詰め込んだ実体的な存在ではなく、いわば一つの歴史的な装置であり、人間の精神を浸蝕する特殊な放射線増幅器である。作品そのものを一字一句違えずに尊重するのは最低限の礼儀だが、経文の如く暗誦すればいいというものではない。如何なる作品も他者の想像力によって補われるべき余白を常に保っているものなのだ。その余白を埋める為に或る作家の文業を集中的に辿ってみることは、有益な挑戦であると個人的に信じている。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)