サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「盗賊」・文体・「作品」という芸術的単位)

三島由紀夫の作品を集中的に読破するという俄仕立ての計画は、今のところ生温い速度で進んでいる。「仮面の告白」「愛の渇き」を読み終えて、今は三島の処女長篇と定義されている「盗賊」(新潮文庫)をのんびりと繙読しているところである。

 私は漠然と「仮面の告白」が、三島の実質的な処女作だと思い込んでいたのだが、実際には「盗賊」の方が年代的に先行しているという、少し調べれば直ぐに判明するような素朴な事実を初めて認識した。だが、そうした予備知識を弁えずとも、文章そのものの完成度、或いは密度が、明らかに「仮面の告白」と比較して劣っていることは、一読して直ちに了解出来た。尤も、これは飽く迄も私の個人的な感想であるから、一般化は出来ない。

 「仮面の告白」にも、終盤に入ったところで妙に物語の進行が不自然な加速を演じている箇所があり、作者の技倆の乱れを感じなかったと言えば嘘になる。だが、僅かな瑕疵を除けば、明らかに「仮面の告白」における稠密で明晰な文体は、それが如何に人工的で装飾的な美文としての性質を具備しているにせよ、才能を持たない人間には綴り得ない洗練と魅惑に達していると証言することが出来る。三島の文体そのものに対する好悪は、評家によって大いに意見の分かれるところであろうが、少なくとも「仮面の告白」における文章の水準は卓越していると看做して差し支えないように思う。

 私は三島由紀夫という特異な作家に、十代の頃から漠然たる関心を懐いてきた。若くして燦めくような才能を発揮し、数々の傑作を世に問うて、四十代半ばという前途ある年齢で、自衛隊の駐屯地に日本刀を帯びて殴り込み、古式床しい自裁を遂げたという華やかで意味深長な経歴に、半ば醜聞に対する下世話な関心を交えた好奇心に囚われたことが、最大の要因であったには違いない。これほど「伝説」に相応しい衝撃的でロマネスクな生涯を送った作家は、それほど多くないだろう。

 今日、三島由紀夫という作家に対する偏見は夥しく繁茂している。それは文学的な観点からも、政治的な観点からも、等しく発せられた批判的意見の塊である。自衛隊の駐屯地で割腹自殺を遂げた彼の右翼的な狂奔と、態とらしいほどに磨き抜かれた観念的な美文に対する敵意、これが三島由紀夫に対する固陋な偏見の主要な成分である。だが、多くの人々にとって、それは又聞きのイメージの上に構築された、借り物の感想に過ぎないのではないか。如何なる感想を持つにせよ、世の中に流布するステレオタイプな見解に、感覚的な判断に基づいて便乗するのは、はしたない振舞いであるし、品位を欠いた考え方であると思う。重要なのは、自分の意見を持つことであり、個人的な尺度に依拠して、個人の責任において、自らの意見を公表することである。ならば、誰かの書き綴った解説の文章ばかりを読み漁って、己の一知半解に磨きを掛けるよりも、実際に三島の著作に当たってみるのが正当な捷径ではないか。

 もう一つ、三島の作品を集中的に読んでみようと思い立った契機は、或る作家の文業を理解するに際しては、個別の作品を断片的に、場当たり的に選び取って読むだけでは足らないのではないか、という考えが脳裡を掠めたことであった。例えば三島に関して例を挙げるなら、単に「金閣寺」の一冊だけを読んで「金閣寺」を理解しようと試みるよりも、彼の遺した厖大な作品の総て、或いはその主要な作品の総てを通読した上で「金閣寺」を読んだ方が、その一冊に対する理解は結果的に深まるのではないか、という意味である。作品というのは確かに一個の芸術的な単位であり、それ自体の独立性や完成度が問われることは普遍的な慣習である。しかし、或る作家の文業を「作品」という単位で離散的に切り分けるだけでは、芸術的価値の本質は見極め難い筈だ。言い換えれば、作家の文業を「作品」という単位で離散的に切り分けるという作業は、大海原に引かれた国境線の如く、飽く迄も便宜的な約束事に他ならないのだという理解を忘れるべきではないのである。

 作家の言いたいことや描きたい主題、或いはもっと盲目的な「創造」への衝動のようなものが、作品という一個の単位によって強引に切断され得ると考えるのは、狭隘な料簡である。「金閣寺」という作品は、それ単体で確かに一個の独自な世界を形作っているが、だからと言って「金閣寺」が、作家の過去の業績とは無関係に、一回限りの博打のように生み出された訳ではないことは、常識として弁えておくべきだろう。個々の作品は、一人の作家の実存を経由して生み出される創造的衝迫の、或る断面図のようなものである。断面図が多ければ多いほど、作家の衝迫に関する私たちの理解は拡張し、深化する。様々な角度から描かれた同一の事物が、その「風景」の複数性によって一層鮮やかに本質的な要素を開示するということは、一般的に認められた現象ではないか。

 無論、芸術は作品だけが価値を持つ、という見解にも一定の説得力は備わっている。作家の存在など、作品の巨大さに比すれば矮小な塵芥に過ぎないと断じるのも、勇ましい卓見のように感じられないこともない。恐らく私という人間は、単に「小説」の具体的な実例そのものに重要な関心を有している訳ではないのだろう。作品に刻み込まれた、或る特異な精神的形態の構造に惹かれているのかも知れない。それは、私が「文学」を「生きること」と結び付けて理解しようと試みる旧弊な古典的価値観の虜囚であることの、紛れもない証左である。卑近な言い方をするならば、私は「文学」を単なる絵空事として定義することに堪えられず、それを己の実際の生活に何らかの形で「役立てよう」と試みているのだ。小説を読むことが、単なる空想の浪費に過ぎないのであれば、もっと効率的で優等な娯楽は他に幾らでも求めることが出来るだろう。或いは、小説が自分の人生との間に何らかの連絡を持たないのであれば、精々それは「巧みに作られた刺激的な御伽噺」の栄誉に与るくらいの価値しか持たない。実際、多くの人々にとって、小説を読むというのは、そうした娯楽の一環に過ぎないのである。そうした風潮に異論を唱えることが今日では、恥ずかしいほどのアナクロニズムと看做され、存分に軽侮され得ることは弁えている積りだ。だが、私は寧ろ「感動」という娯楽を安易に欲しがる態度の方に一層根深い「慚愧」を覚える。別にそれを罪深い行ないだ、などと難じる積りはないが、そうした「感動」や「共感」が殊更に素晴らしいものであるかのように喧伝するのは、自慰行為の快楽を声高に吹聴するような醜態と同根ではないか、という感覚を否むことが出来ない。少なくとも、それはわざわざ他人に報せるべき次元の事柄ではない。

 或いは、単に受動的な「快楽」の享受が疎ましく思えるというだけの話なのか。相手の都合で「快楽」の性質や水準が一方的に決定されるという立場が、忌まわしく感じられるのだろうか。芸術に限らず、一般的に物事は、理解が深まるほどに、その魅力が高まって感じられるものである。言い換えれば、小説を読むことで得られる「快楽」を一層高めていく為には、相応の代償を支払う必要があるのだ。「巧みに作られた刺激的な御伽噺」を味わうだけでは癒やされる見込みのない「退屈」を、私が病んでいるということだろうか。それを成熟と呼ぶのか、或いは老衰と呼ぶべきか。別にどちらでも構わないが、私は過日、三十二歳になったばかりである。

盗賊 (新潮文庫)

盗賊 (新潮文庫)