サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

苦痛への欲望、或いはタナトス(thanatos) 三島由紀夫「愛の渇き」

 三島由紀夫の「愛の渇き」(新潮文庫)を読了したので、感想を認めておく。

 この作品の全篇に行き渡っている、或る陰鬱な雰囲気の由来を、一言で名指すのは困難な業である。何もかもが皮肉の利いた、底意地の悪い文章によって抉り取られ、無条件の肯定に晒されることのないように、周到な工夫を施されて横たわっているように見える。「愛の渇き」という露骨な、或いは無恥なほどにロマネスクな表題さえ、一種の毒薬めいた警句に感じられるのは、作者の厭らしい技巧に見事に欺かれ、甚振られていることの証左であろうか。

 先ず、全篇を覆っている陰鬱な空気の根源に、仮初の名前を授けることから始めてみたい。私の考えでは、それは「タナトス」(thanatos)と呼ばれる独特の精神的衝迫であり、暗い欲望の形態である。尤も、無学な私に「タナトス」という言葉の厳密に学術的な意味を理解する力量は、少なくとも現時点においては備わっていないことに留意されたい。精神分析を提唱したオーストリアの医師フロイトが案出した、この特異な術語は、具体的な物理的実在に捧げられた名辞ではなく、飽く迄も抽象的な観念、一種の学術的な仮説のようなものである。その案出の背景や経緯に関して精確な知識を持たない私が、偉そうにフロイトの有名な術語を借用するのは僭越な振舞いだが、素人の戯言だと思って是非とも寛恕願いたい。

 タナトスの性質に関する議論を要約することは難しい。そもそも、タナトスという概念によって説明されるべき事象の種類は甚だしく多く、それらの総てに就いて遺漏のない指摘を試みることは本稿の趣旨に即さない。先ずは端的に、これを「死に対する欲動」という言葉に置き換えてみる。無論、これだけでは同語反復に過ぎないが、多少なりとも理解の視野は澄んで感じられるだろう。尤も、この場合の「死」という言葉は一種の象徴として解釈されなければならない。それは或る個人の肉体的な死という現象だけを意味しているのではないからだ。そもそも、死の欲動という観念自体が、極めて抽象的な想念の複合体であることを閑却してはならない。タナトスは単に「肉体的な死」という即物的な事件だけを志向しているのではなく、あらゆる生命体や秩序を「無機的な状態」に還元しようとする衝迫に操られているのである。

 「愛の渇き」において、主役に当たる悦子という女性は、異様なメランコリーを絶えず患っているように見える。その背景には、死別した夫の男女関係における飽くなき不品行という陰惨な記憶が蟠っているのだが、それだけで彼女の特異なメンタリティの本質を定義することは不適切である。彼女の精神的な秩序を構成している原理には、決して単純な「幸福」への志向性だけが備わっているのではなく、その意味で、一見すると驕慢な彼女の言動に反して、彼女には近代的な功利主義のようなものの凡庸な陰翳が見受けられない。彼女は明確且つ一般的な意味でエゴイストなのではなく、傍から見れば異様に悲劇的で薄倖の女性なのである。だが、その薄倖が、部分的であるにせよ、彼女自身に内在する根源的な欲動によって積極的に求められたものであるとは、普通は誰も考えないだろう。少なくとも弥吉や謙輔夫妻は、そのような異常な欲望が有り得ることを俄かには信じないだろう。

 悦子は「絶望」や「苦悩」に対する異様な執着を有している。それが所謂「タナトス」と名付けられた欲動の求める対象と重なり合っていることは明白である。こうした自壊的な欲動の存在は、近代的な市民社会が想い描くような「幸福」に対する欲望を信頼して疑わない人々の眼から眺めるならば、殆ど猟奇的な精神障害に類するものと感じられるかも知れない。しかし、幸福を求めて得られない現実に打ち拉がれた孤独な人間が却って、一切の幸福に対する欲望を踏み躙ろうと試みるのは、有り触れた心理的現象であるし、多くの宗教的体系が推奨する「禁慾」や「清貧」の教えも、そのような心理的逆説に基づいて樹立された訓戒であると看做すことが可能である。敢えて幸福を否定し、希望を峻拒することで得られる逆説的な「平安」を、仏教は「涅槃」(nirvana)という言葉で呼び、救済の象徴として壮麗な理念化を施した。そのような「涅槃」に対する奇怪な欲望を、私は「タナトス」という言葉で表現したいと考えている。

 「涅槃」の絶対的な静寂は、生命という存在の根源的な原理そのものに背馳するような形式で構成された安心である。「涅槃」は物理的な死を仮想的な仕方で経験することに他ならず、それを自ら積極的に求めることは、生命体としての自己否認を明確に含んでいる。だが、そのような欲望を感じているという事実自体は、明らかに生命体に固有の現象である。生命体としての肯定的な欲望(libido)とは裏腹に見える、一種の破滅的な欲望であっても、それが生命体に固有の欲望であることは動かし難い事実なのである。

 従って、悦子のような精神的形態の持ち主を一概に「異常」の区分へ括り入れて遠ざけるのは、人間に対する精密な理解を欠いた態度であると言わざるを得ない。もっと言えば、リビドーだけで構成された精神的主体が存在しないように、純然たるタナトスだけで構成された精神的主体も存在しない。人間の内面には絶えず二種の相反する欲望が蠢き、互いに混じり合って不可思議な化合を繰り返しているのである。

 だが、タナトスが人間の共同体において禁圧されるべき欲望として存在し、認知されていることには注意を払わねばならないし、あらゆる人間的な倫理は、タナトスの自在で無際限な発露に対する抵抗を、その重要な使命として担っている。あらゆる生命体を無機的な状態に還元しようとする危険で野蛮な欲望が公然と是認されれば、人類の社会が致命的な打撃と損失を蒙ることは明白であるからだ。従ってタナトスは常に監視と制約の対象に指定され、その禁忌に違反した者は社会的な懲罰を科せられることになる。

 けれども、タナトスに対する峻厳な禁圧が、タナトスの堂々たる発露を防ぐ抑止力として働くことは事実であるとしても、直ちにそれがタナトスの完全なる扼殺に繋がることは有り得ない。様々な理由に触発されて、人間の内部に蟠踞するタナトスは社会の表層へ身を躍らせようと企てる。人類の歴史を顧みれば、私たちが今まで一度もタナトスの野蛮な表出を全面的に抑止することに成功した例がないことに否が応でも気付かされることになるだろう。その意味で、タナトスは極めて人間的な欲望であり、現象である。そして、あらゆる小説が、人間の実存に対する厳格で精緻な「認識」の欲望に貫かれていることを鑑みれば、三島由紀夫タナトスの齎した陰惨な悲劇を綿々と書き綴ったという歴史的な事実は、少しも奇異な振舞いではないのである。

 「仮面の告白」において断片的に触れられていたタナトスに関する描写は、この「愛の渇き」においては一挙に拡大され、最も中心的な主題として作品の基調を成している。悦子が示す愛情は、「良人」の度重なる背徳によって深刻な歪曲と屈折を施され、明瞭なタナトスの臭気を豊富に含んで瀝っている。例えば、次のような独白に注目してほしい。

『こうして私は良人がとうとう私のところへ、私の目の前へ還って来るのを見た。膝の前へ流れ寄って来た漂流物を見るようにして、私はかがみこんで、仔細に、水のおもてのこの奇異な苦しんでいる肉体を点検した。漁師の妻のように、私は毎日海辺へ出て、たった一人で待ち暮したのだ。そうしてとうとう、入江の岩のあいだの澱んだ水のなかに漂着した屍体を見出だした。それはまだ息のある肉体だった。私はすぐそれを水から引きあげたろうか? いいえ、引き揚げはしなかった。私は熱心に、それこそ不眠不休の努力と情熱とで、じっと水の上へかがみ込んでいただけだった。そしてまだ息のある体が、すっかり水に覆われ、二度と呻きを、叫びを、熱い呼気をあげなくなるまで見戍った。……私にはわかっていた。もしよみがえらせれば漂流物は忽ち私を捨てて、また海の潮流に運ばれて無限のかなたへ逃げ去ってゆくに相違ないことを。今度こそは二度と私の前に還って来ることはないかもしれないことを。(P51-P52)

 これを一般的な意味での「愛情」と呼ぶべきか、当惑する読者は少なくないだろう。この匂い立つようなサディズムの気配は、明らかに悦子の精神を支配し占有しているタナトスの蠢動から分泌されたものである。愛する人の恢復を願わない悦子の心理は、愛する者を拘束して自分の所有物として定着しておきたいという、標本の採集に余念のない昆虫学者のような論理を抱え込んでいる。それは言い換えれば、他者の存在と人格を一種の「無機物」として固定したいという明白にタナトティック(thanatotic)な欲望である。他者の存在を「無機物」に還元することによって充足される欲望は、最早「愛情」というよりも、常軌を逸した「我執」の一種であると看做すべきかも知れない。本来、愛情とは他者の成長と幸福を願う感情であり、その死を希求するようなものではない。釈放した途端に自分の手から逃れて他の女の許へ去っていくのならば、その死を願ってでも引き留めておきたいと考えるパセティックな熱情は、その温度に限って言えば劇しい愛情に類似しているが、その本質において愛情とは全く対蹠的な認識に基づいている。それは結局、相手の死を願うことによって、永劫の喪失に帰着せざるを得ない。にも拘らず、悦子がそのような内なる欲望の教唆から遁走し難く思うのは、彼女の懐いているタナトティックな欲望が極めて観念的な性質を保持しているからである。

 あのときの私にとっては、もし良人がよみがえった場合、良人と私との間に想像される幸福のたよりなさは、目前の良人の生命のたよりなさと殆ど同質のものだった。だからまた、このたよりない幸福よりもむしろ今の一刻に幸福を見ようとしたとき、良人のたよりない生よりは確実な死にそれを見るほうが容易に思われた。ここに至って、良人の持ちこたえている刻々の生命に懸けた私の希みは、彼の死を希うことと同じだったのだ。(P68)

 これほど明確に、悦子のタナトティックな欲望が露わに語られていることを思えば、この「愛の渇き」において作者の選択した芸術的主題の正体に、彼是と思い悩む必要は乏しいように感じられる。「確実な死」に「幸福」を見出そうと努める悦子の異様な「熱情」は、殆ど「希死念慮」と同義である。

愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)