死と官能の結託 三島由紀夫「音楽」 1
三島由紀夫の『絹と明察』(新潮文庫)を読了したので、現在は同じ作者の『音楽』(新潮文庫)を読んでいる。
或る精神分析医の手記という体裁を取り、一人称の話法で綴られたこの小説において、最も重要な役回りを演じる弓川麗子という女性に就いての描写を読みながら、私は「愛の渇き」に登場する杉本悦子の特異な精神的病態を想起した。死病に蝕まれた男と、その献身的な看護に励みながらも、或る倒錯的な快楽を密かに堪能している女という構図は、明らかに「愛の渇き」における悦子と浮気性の亡夫との関係性に類似して見える。尤も悦子の場合は、重篤な死病が愛する夫の難治性の浮気を物理的に抑止し、その肉体を彼女の完全な支配下に呪縛してしまうことが喜悦の源泉であり、尖鋭化された「嫉妬」が「殺意」を帯びるという特徴を帯びているのに対し、麗子の許婚に対する主要な感情は「嫉妬」ではなく「嫌悪」である。だが、何れにせよ彼女たちの欲望の焦点が「殺意」や「死苦」に深々と結び付いているという事実は動かし難い。或いは「獣の戯れ」において描かれた奇怪な性愛の共同体も、同質の官能的な原理に拘束されていると考えることが可能である。
それを頗る単純化して捉えるならば「サディズム」(sadism)の発露ということになるだろうか。私見では、サディズムの本質的な特徴は必ずしも、物理的な暴力や虐待そのものに対する異常な執着の裡に存する訳ではない。重要なのは、他者の有する主体的で自律的な性質を毀損することである。本来ならば自律的な人格を持ち、他者との間に適切な距離を確保して、独立した裁量の権利を行使するべき存在が、何らかの手段を通じて心身の自由を制約され、他者の意見や律法に屈服し、個体としての明晰な輪郭を失ってしまうこと、そうした状態への段階的な移行の過程、その光景を眺めることを通じて官能的な興奮や愉悦を味わう人格的特質、それがサディズムの定義であると私は捉えている。
一日一日、病人の目に、私が光りかがやく聖女のように映ってゆくのがわかりました。かつて私に暴力をふるったこの男が、今や立場が逆転して、何ごとも私の言いなりになる他はないのが、私にはひどくいとしく思われました。今、この人を私の力で押えつけ、腕をへし折ってやることだって簡単に出来ると思うと、急に又従兄は、その乾いた黄いろい不気味な死相にもかかわらず、赤ん坊のような魅力のある存在に見えてきました。おかしなことに、私は今では彼が可愛くてたまらず、刻一刻彼に近づいてくる死を遠ざけるためなら、どんなことでもしてあげる気になっていました。彼の病気が絶望的であることを、私はもう本気で悲しんでいました。こんな若い人に対する運命の不公平を呪い、できることなら自分が代って上げたいとさえ思いはじめていました。何ということでしょう。私は本当に聖女になりかけていたのです。(『音楽』新潮文庫 p.95)
こうした感情の奇妙な転倒を、死病に蝕まれた憐れな人間に対する誠実な愛情であると看做すのは危険な振舞いである。彼女は決して又従兄の許婚を愛しているのではない。彼女の献身的な看護が、衰弱した病人への痛ましい共感や憐憫に基づいていると看做すのも、適切な解釈であるとは思い難い。「彼の病気が絶望的であることを、私はもう本気で悲しんでいました」と言いながらも、麗子の「聖女」を想わせる自己犠牲的な慈愛の情熱は決して、許嫁の目覚ましい恢復を希求していない。寧ろ彼女が安心して「聖女」の自画像に全幅の信頼を委ね、不眠不休の賢明な看護に挺身し得るのは、許婚の病状に恢復の見通しが乏しい為である。換言すれば、麗子にとって許婚の存在が奇妙に愛しく感じられるのは、許嫁が辛うじて呼吸をしていても実質的に「死者」の領域へ足を踏み入れているからなのだ。
サディズムの根源的な性向、つまり「他者の自由や主体性を毀損すること」への熱烈な欲望が、その深層に絶えず「死」という極北を伏流させていることは明瞭である。殺意は、相手の自由や主体性を根源的に破壊してしまいたいという欲望の究極的な形態である。だが、サディストにとって最も重要な悦楽の源泉は、そうした全面的な破壊へ到達するまでの経過の裡に存する。「死」そのものよりも、究極的な到達地点としての「死」へ向かって徐々に移行していく過程が、サディスティックな法悦を形成する最も本質的な鍵なのである。
入ってきた麗子を、私は平然と迎えることができたのを喜んだが、彼女がすっかり白粉気を失くし、大そう痩せて、口紅もつけない蒼ざめた素顔でいることにおどろいた。服も、ジルコンか何かのアクセサリーこそつけているが、首まで詰った長袖の、黒一色の喪服みたいなもので、麗子はその白っぽい虚脱したような顔から、それだけが生々しく悩ましい、潤んだ大きな目で私を見た。彼女は完璧な「喪の女」であり、「悲しみの女」であった。身も蓋もないことを言えば、一度自分のきいた「音楽」に操を立て、その忘れがたい快楽に忠実を誓うために、彼女はこんな「聖女」の扮装をしていたのである。
服装も一種の症候行為である。内心の欲求を隠し、かつ表現する。私はこの白粉気のない顔、この喪服に、彼女のよろこびをしか見なかった。(『音楽』新潮文庫 p.108)
服喪の悲しみと官能的な快楽との間に秘密裡に架けられた不謹慎で不道徳な橋梁、悲嘆に溺れる過程の内部に隠然と埋め込まれている限りない愉悦、こうした感情が明朗で建設的な「愛情」との間に抱え込んでいる巨大な径庭に、読者は注意を払うべきである。麗子にとって許婚の夭折は悲嘆や絶望の対象ではなく、超越的な快楽の湧出する背徳的な源泉である。悲嘆や絶望の「扮装」は、そうした反社会的な愉悦の存在を世間の批判的な視線から防衛する為の仮構に過ぎない。敢えて「聖女」を装う巧緻な欺瞞の裡に護られた彼女の極めて個人的な「音楽」は、その外貌とは裏腹に、死者に対する冒瀆的な支配欲に塗れていると言える。彼女は悲嘆や絶望といった表層的で一般化された情念の形式で本心を隠蔽しながら、許婚の「破滅」の裡に至高の法悦を見出しているのである。
「でもね、先生、私にとっては、喪の毎日がひどく変な気持だったのです。その理由はわかっていただけると思いますけど、私はあれほど真剣に俊ちゃんの看病をし、何とか治してあげたいと心から念じ、亡くなったときは身も世もあらぬ嘆きに沈んだくせに、心の片方では、毎日毎日の充実した幸福を、自分でもどうしてよいかわからないほどでした。あの人が決して助からないということは、わかりきっていましたし、私の気持がすべてそこから出発していたことも、言うまでもありません。その安心感の上で、必死に看病をし、祈り、悲しんだこともたしかです。
あの人が亡くなったとき、私が呆然としたのは、これで自分の短い間の幸福感ともお別れだということを痛切に感じたからでした。そこまで行くと、私のエゴイスティックな感情と、愛する人間に死に別れるときの純粋な悲しみとは、全然見わけのつかないものになりました。私はいつのまにか、あんなに嫌っていた俊ちゃんと、自分のわけのわからない幸福感とを、一体のものにしてしまっていたからです。(『音楽』新潮文庫 pp.110-111)
許婚の病状が決して恢復する見込みのない、実質的には「死」の遅延した暫定的な情況に過ぎないという厳格な事実が、麗子の尽きせぬ愉悦の源泉であったのだとすれば、彼女の賢明な看病は一種の官能的な遊戯に類する営為として定義されねばならない。寧ろ恣意的な遊戯であるからこそ、彼女は献身的な看病の日々へ存分に耽溺することが出来たのである。若しも病状が好転して、許婚が健常な状態へ復帰したとすれば、麗子の味わっていた秘められた愉楽は確実に消滅したに違いない。彼女の「看病」は決して病人の奇蹟的な快癒を祈るものではなく、寧ろ「死」へ向かって着実に滑落していく人間の生態を観察し、そこから無限の快楽を汲み上げることを目的として営まれたのである。それは「人間」が「物質」へ還元されていく過程に喜悦を見出すサディズム的な欲望の鮮明な顕現であると言える。